「アメリカ音楽の父」とも称されるスティーブン・コリンズ・フォスター(アメリカ,1826-1864)
生涯発表した約200曲のうち135曲がパーラー・ソング(現代で言うポピュラー音楽)、28曲がミンストレス・ソング(当時流行していたエンターテイメント・ショーで用いられる楽曲)であり、所謂クラシック、で思い浮かぶような曲をほとんど作曲していない。
50回目のアメリカ独立記念日に、ペンシルバニア州の裕福な実業家の家に生まれる。
年の離れた10人兄弟の末っ子で、お姉さんからフルートやギター・ピアノの基礎を教わりながら育った。
学校に通いながら作曲した「ティオガ・ワルツ」が処女作。
ただし、父の事業の失敗による家庭の事情や、彼自身の学校嫌いにより、中学・高校では入退学を繰り返し、最終的には入ったばかりのジェファーソン大学を中退している。ただ勉強自体は好きで、フランス語やドイツ語を独学で話し、無類の読書家であったといわれている。
(学校の授業は嫌いで自分の趣味に全力投球という彼女のキャラ付けはこれが元ネタだろうか。)
卒業後は綿花倉庫の検査員をやったり兄の商会で帳簿係をしたりしつつ、作曲・出版を行う。
兄弟や友人とコーラスグループを作って路上ライブをしたりもしていたようで、「ルイジアナの美人」「おおスザンナ」などはこの頃の作。
「おおスザンナ」発表の年、カリフォルニアでゴールドラッシュが起きる。
この曲は西へ向かう幌馬車隊の中で多くの人々に歌われ、アメリカ中でヒットすることに。
当時の人にも「作曲者は知らないけど聴いたことある曲」的な扱いだったらしいが、本人は音楽家として生きると決意し、アメリカで作曲者として生計を立てた最初の人物となる。
24歳の時、5歳年下のジェーンと結婚。翌年には娘も生まれる。
(余談だが1992年に、妻のジェーンを主人公にし、フォスターの人物伝をモチーフにしたアニメ「風の中の少女 金髪のジェニー」が放映されていた。若き日のフォスターも登場している)
その頃から毎年のようにヒット作を発表しており、まさにフォスターの黄金期だった。
しかしこの時代、著作権保護などがまるでなされていない時期であり、大ヒットした「おおスザンナ」は16の出版社から30種類の楽譜が売りだされて10万部も売れたが、フォスターの収入はたった100ドルという有様であった。
1850年には「故郷の人々」を発表し、たちまち空前の大ヒットとなったが、南北戦争前夜という社会的背景の中で黒人歌作家を名乗るのをためらったフォスターは、作家名を二束三文で売ってしまう。
(「ウチ、お金って興味ないんですよね~」というボイスは、こうしたヒット作を出しても自分の収入にする事に無頓着だった事が元ネタなのかもしれない。)
さらに1855年、29歳の頃には両親と兄を立て続けに亡くし、打撃を受ける。
さらには南部と北部の対立が激化、南北戦争へと向かう中でフォスターはどちら側からも疎まれる立ち位置になる。
(北部の白人であり、黒人を題材としたミンストレル・ショーへの関与が深かったため)
曲も以前のようには売れなくなり、ついには借金生活に陥る。
妻子とも離れてニューヨークの安宿で安酒に浸る生活を送る中、発熱から朦朧として洗面台に激突。
発見されるのが遅れたため出血多量、病院にて37歳の若さで息を引き取った。
フォスター最後の名曲「夢路より(Beautiful Dreamer)」が発表されたのは、彼の死後まもなくのことだった。
代表的な曲は「草競馬」「おおスザンナ」「夢見る人(邦題:夢路より)」「ケンタッキーの我が家(クリスマスに混む例の店のアレ)」など曲を聴けばピンとくる曲を作曲している。
同人オタクというキャラ付けについて:
フォスターは黒人文化に寄り添うような音楽活動を続け、南北戦争前夜というデリケートな社会情勢に翻弄された生涯を送っている。こうした音楽活動を、ある種アングラな創作活動であったと捉える事で、現代のアングラ創作活動「オタク同人」という再解釈を行ったのではないだろうか。そうする事で、人種差別や戦争といった陰惨なキーワードから離れて、「スーザン・フォスター」という天真爛漫であっけらかんとしたキャラクターを創作した、というのは考えすぎだろうか。
|