| 作曲家アントニオ・サリエリ(1750年8月18日-1825年5月7日)楽曲作品の傾向:イタリア・オペラ、室内音楽、宗教音楽
 イタリア、レニャーゴ生まれ、幼少よりチェンバロ、声楽、ヴァイオリンの音楽教育を受ける。裕福な商家に生まれるものの10歳頃には家業が傾き、両親の死去した後は北イタリアヴィネツィアへ
 1766年、宮廷楽長ガスマンの目に留まりウィーンの宮廷へ招かれる
 1774年オーストリア皇帝ヨーゼフ2世によって宮廷作曲家、1788年宮廷楽長に任命
 1817年ウィーン楽友協会音楽院の指導者に就任
 神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕えた宮廷楽長(カペルマイスター)ヨーロッパ楽壇の頂点に任命された、とても偉い作曲家であり指揮者であり諸侯の音楽教師でありetc…と宮廷楽長として多忙を極めた。
 皇帝に仕えるという名誉の裏、ヘマをやらかしたらほぼ失業確定という失敗が許されない、不安定な職であった。
 その宮廷楽長を亡くなる直前の1824年まで務め上げた。彼の楽壇の管理能力は素晴らしいのものであったと推察される。
 もちろん、その位に恥じぬ実力を持ち、全盛期はミラノのスカラ座からこけら落とし作品を依頼されてイタリアでオペラを書き、フランス・パリのオペラ座からも声がかかる人気ぶりを誇った。
 また、ベートーヴェン、シューベルト、リスト、ツェルニー等、現在でも評価されている彼らを育てた名教育家でもあったという。経済的にも成功していたサリエリは、職を失った音楽家やその遺族の為にコンサートを開催したり、才能ある弟子や生活に困窮している弟子などへの支援を惜しまなかった。
 おそらく一番有名なのはモーツァルトとの対立関係なのだが、妨害行為や盗作・果ては毒殺といったサリエリの悪評は基本的に根も葉もないスキャンダルらしい。
 彼が生きていた当時から騒がれて本人は心を痛めていたが、当時のウィーンで起こっていたドイツ派とイタリア派の争いに巻き込まれたのが実情のようだ。
 モーツァルトの書簡には「俺が出世できないのはサリエリが妨害するせいだ」とたびたび悪口を書かれているが、
 サリエリはモーツァルトのミサ曲やレクイエムを幾度も指揮しており、実際のところ才能を認めて親交していたという。
 ちなみにモーツァルトが遺した最後の手紙には、サリエリを招いて上演したオペラ「魔笛」を直接絶賛されたことが書かれている。
 だがサリエリの死後、彼と彼の曲は数多の作曲者に埋もれ、語られる機会は他音楽家の生涯に名前をチラリと見るか見ないか程度であった…(器楽より劇場でのオペラ作品が得意分野だったので再評価されにくい所もある)
 のだが、現在では知名度が上がり、サリエリの名を知る者が増えた。知名度が低かったサリエリが、時を経て評価されるに至ったのは
 戯曲「アマデウス」(1979年)を映画化した「アマデウス」(1984年)
 サリエリ視点でみる「天才」モーツァルト。天才への嫉妬と渇望、苦悩を表現した名作。是非ご覧いただきたい。
 参考:Wikipedia |