ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(1824~1896)
- 人物
オーストリア生まれの作曲家兼オルガン教師。
交響曲の他に宗教音楽を数多く作曲しており、「テ・デウム」や「ミサ曲」が有名。
好きなものはお酒、というかビール。
ジョッキで10杯以上のみ、医師に止められたこともある。おそらくブルックナーの病気の原因の一つ。
性格は、卑屈で臆病な面と自信家で上昇志向の強い面が見られる。
他人の意見を気にして改訂を行ったり、指揮者とのやり取りの手紙では、「どうぞご自由に変更してください」というような文章がよく出てくる。
その反面、自分の能力には自信を持っていたようで、「今は理解されなくても未来には理解される」というようなことを言ったり、手紙で遜りながらも譲れない部分は遠まわしながら主張している。また、昇給や給料の増額、新講座の開講など教師として何度も上司に請願している。
服装に無頓着で、ボタンが外れたコートを着たまま表彰式に出席したとか、尋ねてきた女性客に裸で応対して悲鳴をあげられたとか、とんでもない逸話が残っている。
また若い女性に生涯恋をし続けたのでロリコン疑惑がある。(十代後半から二十代前半の女性なので正確な意味でのロリコンではない)
- 生涯
- 聖フローリアン時代(幼少期から新米教師)
オーストリアのアンスフェルデンに生まれる。
幼少の頃に父と従兄から音楽を学び、11歳の時に(現存する記録においては)初の作曲をする。
父の死後は、聖フローリアン修道院に預けられ、同国民学校に編入、修道院においてオルガンを中心に音楽を学んでいく。
国民学校卒業後は、本人の希望により小学校教師を目指すことになる。
当時の教師は教会音楽と教会の諸任務も仕事の内であり、教師を目指したからと言って音楽から離れたわけではなく、むしろ教員養成課程において始めて学術的に音楽を学んだようだ。
そして教師としては、10代後半で助教師、20代になって正教師と順調に昇進していくと同時に、最初のオーケストラ付き大作「レクイエム」の作曲などにより、修道院オルガニストにも任命されている。
ブルックナーが教師ではなく音楽家として修行を始めるのは、彼が30代に入った頃である。
(余談だが、20代のブルックナーは、下宿していた校長の家で10代半ばの少女に恋をしている。しかし、この恋は少女が困惑するだけで実らなかった)
- リンツ時代(作曲家への道)
30代に入った頃、リンツの大聖堂オルガニストが空席になり試験を行う知らせがブルックナーの下に届く。
急遽その試験を受けると1位で合格、「教師」ではなく「大聖堂オルガニスト」、すなわち音楽家としてリンツに移り住むことになる。
この時代になってようやく、オットー・キツラーの下で作曲家としての修業を始めている。
それでも教師としての安定性も欲しいのか、「和声学と対位法」の教授の資格を取り音楽教師にもなる。
またこの時期、ワーグナーとの初対面があったが自己紹介のみで終わる。
修行後は早速交響曲の制作にとりかかり、完成した交響曲第一番は、評価こそ低かったものの一部擁護する者が現れ、ウィーンに行き作曲に専念することを勧められる。
結局ウィーンにはオルガン担当教授として移ることになるのだが、この時、遠まわしに給料の増額を求めている。
(また余談だが、リンツ時代に弟子の一人である17歳の少女に求婚している。もちろん振られた)
- ウィーン時代(交響曲の巨匠)
ウィーンでは、音楽院の「通奏低音、対位法ならびにオルガン担当教授」として採用される。
オルガニストとしては、パリやロンドンなど、様々な場所での演奏会で大成功を収めるようになるが、何か成功するたびに給料の増額や作曲に専念するための給付金を求めている。
教師としては、ウィーンの様々な学校で教鞭をとりながら昇進していき、ウィーン大学において「和声学と対位法」の講師として勤めるようになる。
作曲家としては、ワーグナーを称賛したためか、批評家の反感を買い苦しい立場に立たされることになる。
第六番までは批評家の評判を覆すことが出来ず、弟子や知人からの勧めもあって既存の作品の「改訂」を始めるようになる。
(またまた余談だが、ウィーン大学で働く前、とある学校の女子クラスにおいて、女子生徒に対しての発言が大問題になり男子クラスに移されるという事件が起きている)
- 成功と晩年
教師として順調、オルガニストとしては盤石、しかし作曲家としてなかなか成功できないでいたブルックナーだが、ワーグナーへの葬送曲が含まれた第七番において大成功を収める。
続く第八番はなかなか演奏されず、その間に既存の曲を含め大改訂が挟まれたものの、こちらも成功、ブルックナーの作曲家としての名声は一気に高まることになる。
しかし、第八番の作曲中に病魔に侵され、寝たきりになる期間が増えていき教師を辞退、オルガニストとしての活動も終わり、第九番の作曲も思うように進められなくなってくる。
第九番は三楽章まで完成されたものの、終楽章を完成させないままウィーンにて没する。
遺体は、彼が育った修道院に埋葬された。
(最後の余談だが、晩年ブルックナーはまたまた十代後半の女性と交際しており、婚約の話も出ていたが、結局破局、生涯独身で終わった)
- ブルックナーの交響曲
番号が与えられなかったヘ短調曲と0番から9番までの交響曲を作曲している。
しかし、ブルックナーが二度の大改訂や後年の校訂により、名前が同じ別の曲とでも言えるような状態になっていたりするが、この「版問題」は扱わないことにする。(筆者が扱えない)
これらの交響曲のすべてにブルックナー独自の特徴があるので、「ブルックナーは9曲の同じ曲を作った」などと言われたこともある。
以下に特徴をウィキペディアから抜粋する。
- ブルックナー開始
第1楽章が弦楽器のトレモロで始まる手法であり、交響曲第2,4,7,8,9番に見られる。
- ブルックナー休止
楽想が変化するときに、管弦楽全体を休止(ゲネラル・パウゼ)させる手法である。
- ブルックナー・ユニゾン
オーケストラ全体によるユニゾン。ゼクエンツと共に用いられて効果を上げる
- ブルックナー・リズム
(2+3) によるリズム。第4,6番で特徴的である。(3+2)になることもある。複付点音符と旗の多い短い音符の組み合わせで鋭いリズムを構成する方法などがある。
- ブルックナー・ゼクエンツ
ひとつの音型を繰り返しながら、音楽を盛り上げていく手法。いたるところに見られる。
- コーダと終止
コーダの前は管弦楽が休止、主要部から独立し、新たに主要動機などを徹底的に展開して頂点まで盛り上げる。
正直音楽的な素人(筆者など)には理解できない言葉が多いが、重要なのはこれらの独自の特徴をもって堅実に理論的に全ての曲が構成されているという点だろう。
以下、簡単に解説する。(詳しい解説はウィキペディアや専門書を見ていただきたい)
- 交響曲第一番 ハ短調
初演の指揮はブルックナー自身。客は少数だったがウィーン行きと交響曲作曲家になることを決定付けた曲。
- 交響曲 ニ短調 無効
試演の指揮者に全く理解されなかったことにより落胆、無効とされた曲。初演は1924年。指揮者はフランツ・モイスル。
- 交響曲第二番 ハ短調
初演の指揮はブルックナー。自身の即興演奏の後に演奏され一応は成功。しかし、この曲からワーグナーのエピゴーネンと批評される。
- 交響曲第三番 ニ短調
ワーグナーに献呈された曲。「ワーグナー交響曲」の愛称でも呼ばれている。ブルックナー本人指揮による初演は大失敗だったが、この時数少ない最後まで残った観客の内にグスタフ・マーラーがおり、感動したことをブルックナーに伝えている。
- 交響曲第四番 変ホ長調
「ロマンティック」という標題が付いている曲。分かりやすく人気がある。初演の指揮はハンス・リヒター。批評家を黙らせるには至らないが聴衆には歓迎され成功を収めている。
- 交響曲第五番 変ロ長調
作曲者曰く、対位法的交響曲、または幻想風交響曲。初演時にブルックナーの許可なしに大幅なカットや変更が行われており、原典にもとづく初演は1935年になる。指揮者はジークムント・フォン・ハウゼッガー。
- 交響曲第六番 イ長調
ブルックナーの田園交響曲。全曲の初演は1899年。指揮者はグスタフ・マーラー。
- 交響曲第七番 ホ長調
交響曲作曲家としてのブルックナーの名声を国際的に高めた作品。分かりやすさもあり4番と人気を二分する。後にブルックナーが「芸術上の父」と称える名指揮者ヘルマン・レヴィが指揮をした最初のブルックナーの曲。
- 交響曲第八番 ハ短調
演奏時間80分という長大な曲だが、全ての交響曲の中で最も優れていると言われることもある傑作。レヴィに理解されなかったことにより(他の曲も含めて)改訂されている。初演の指揮はハンス・リヒター。
- 交響曲第九番 ニ短調
未完成。作曲者自身は、今までで最も美しいアダージョ(第三楽章)が書けたと語ったことがある。原典の初演は1932年。指揮者はジークムント・フォン・ハウゼッガー。
参考文献
作曲家◎人と作品シリーズ、根岸一美著『ブルックナー』
ウィキペディア
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