モデルとなった人物はドイツ・ロマン派を代表する作曲家、
ローベルト・アレクサンダー・シューマン(1810/6/8~1856/7/29)。
ザクセン王国(現在はドイツ連邦共和国ザクセン州)のツヴィッカウ生まれ。出版社の顔も持つ書店を営む
土地の名士、アウグスト・シューマンと妻ヨハンナの間に生まれた5人兄弟の末子。
【幼少期~ギムナジウム時代】
幼いころから才能に溢れていたようで、7歳の頃にはピアノで小さな舞曲を作曲し、
周囲の注目を集めるようになっている。
10歳になり、地元ツヴィッカウのギムナジウムに入ってからも、合唱と管弦楽のための
オラトリオを作曲したり、ピアノで即興的に幻想曲、変奏曲を作っては
家族に聴かせていた。
父アウグストは「うちの子は天才や!!」と言わんばかりに喜び、シューマンが15歳のときに
ウェーバーに息子を弟子にしてくれないかという手紙を送っている。
しかし、手紙の返事は来ないまま、ウェーバーは病没。
後を追うかのようにアウグストも2ヶ月後に世を去る。
ちなみに、父の死の数週間前に姉エミーリエが入水自殺。 なんだこの負の連鎖…
一方、ギムナジウム在学中のシューマンは、父と親交のあった人たちの音楽会やサロンに迎えられている。
そこで知り合ったアグネス(人妻)とナンニ・ペチュ、リディ・ヘンペルという二人の少女に
三股をかけてほぼ同時進行の恋愛を楽しんでいたもよう。
そしてこの頃からシャンパンや葉巻を嗜むようになった。
【大学時代】
ツヴィッカウのギムナジウムを卒業したシューマンは、音楽の道ではなく、
ライプツィヒ大学法科に進学。
しかし、学生生活が始まると、冷徹な法学が好きになれず、また、ライプツィヒに
ツヴィッカウのような自然が無いことに失望。
シューマンはピアノを入手し、学生仲間の中から弦楽器が弾ける者を見つけて
室内楽の演奏をすることに夢中になった。
この頃、前述のアグネスの夫エルンスト・カールスと再会。カールス家で催された音楽会に招かれている。
1928年、彼はピアノ教師フリードリヒ・ヴィークとその娘クララと出会うのである。
ヴィークの指導は厳格な上に過酷、残忍とまでの評判だったのだが、シューマンは母に許可を取ってから
レッスンを申し込み、28年夏ごろからヴィークにピアノを師事した。
クララ(当時9歳)とも順調に親しくなる。
翌年シューマンはハイデルベルク大学へ転校。転校後のシューマンは自分の時間を
ほとんど音楽に充てるようになった。
その後のシューマンのピアニストとしての評判はハイデルベルクの外にまで聞こえるほどになる。
1830年、フランクフルトに出かけたシューマンは、ニコロ・パガニーニのヴァイオリン演奏を聴いて
決定的な影響を受け、音楽家の道を歩むことを決める。
【ライプツィヒ時代】
1830年10月、ヴィークの家に住み込みでレッスンを受けることになったシューマンは、
ライプツィヒに戻ってくる。
1831年10月には気難しく厳格なヴィークの指導に不満をつのらせ、ヴィークがクララを連れての
演奏旅行に出かけたところで家出。
その後もヴィークとのレッスンは続けられたものの、パーティや社交界に精を出すようになり、
下宿先や街のコーヒー・ハウスで芸術好きな仲間たちと夜遅くまで音楽論議を交わした。
この頃に指の1本だけを吊りながら演奏するという機械装置を使って、右手の人指し指と
中指の腱を痛め、作曲で身を立てる意志を固めた。
1832年には「諸君、脱帽したまえ、天才だ」としてショパンを紹介する論文を音楽新聞に
投稿しているが、ドイツの音楽批評の水準に不満を感じていた。
このため、音楽関係の知己とともに「新音楽時報」という新しい雑誌を創刊。
1834年、ヴィークの新しい弟子として住み込んだエルネスティーネと交際、婚約するが、
エルネスティーネが自身のかなり複雑な家庭事情(男爵と伯爵夫人との間の私生児)の背景をシューマンに
語っておらず、これを知ったシューマンが傷つき(と言われている)、数週間で婚約解消。
この二人の恋愛から生まれたのが『謝肉祭』、『交響的練習曲』である。
1835年からクララ(この時16歳)との恋愛が始まると、エルネスティーネは潔く身を引き、むしろ二人を応援した。
クララは女流ピアニストとして9歳でのデビュー以降華々しく活動をしており、シューマンの故郷
ツヴィッカウでも演奏会を開いた。このときシューマンはツヴィッカウに戻ってクララに会っている。
ヴィークはシューマンとクララの関係に気づき、1836年1月にクララをドレスデンに移住させるが
シューマンはクララを追って、2月7日から10日までを二人で過ごしている。 昨夜はお楽しみでしたね
このことを知ったヴィークは大激怒。二人に罵詈雑言を浴びせた。
シューマンはヴィーク家への出入り禁止、クララは手紙の検閲、一人での外出禁止と
厳しい監視下に置かれた。
ヴィークはシューマンに出会うたびに悪罵を投げつけ、顔につばを吐きかけることもあった。
シューマンに生活力がなく飲酒癖があるなど虚偽・中傷を繰り返し、エルネスティーネとの恋愛事件を
蒸し返して彼女の協力を得ようとした。
シューマンを動転させるために、ヴィークの友人でクララの声楽教師だったカール・バンクに
クララの恋人を演じさせようと試みてもいる。親父…なんて必死なんだ…
ヴィークの妨害に疲れ、シューマンの手紙を全て彼に送り返したこともあったが、クララはライプツィヒでの
リサイタルでシューマンから献呈された『ピアノソナタ第1番』を弾き、1837年8月14日、シューマンに
結婚を承諾する手紙を出している。
その後もクララはヴィークと演奏旅行に出かけ、クララはコンサートでシューマンの作品を演奏した。
この時の作品が『幻想小曲集』、『ピアノソナタ第3番』、『子供の情景』、『クライスレリアーナ』、『幻想曲』。
ヴィークと和解できないと考えたシューマンは、1839年6月クララの同意を得て弁護士に訴訟手続きを依頼。
同年7月にクララの実母を訪ね、結婚の同意を得た。また、公的地位を得ることが結婚に
役立つかもとイェーナ大学の哲学博士の学位を取得している。
訴訟に激怒したヴィークは法廷で有効な申し立てができず、罵詈雑言をわめきちらして判事から
たしなめられる有様だった為、1840年8月にシューマンとクララの結婚を許可する判決が下された。
クララ21歳の誕生日の前日、1840年9月12日に二人はシェーネフェルトの教会で結婚式を挙げた。
この結婚式にはフランツ・リストも出席している。
【クララとの家庭生活】
二人の間には、8人の子供が生まれた。
長女 マーリエ(1841年 - 1929年)
次女 エリーゼ(1843年 - 1928年)
三女 ユーリエ(1845年 - 1872年)
長男 エミール(1846年 - 1847年)
次男 ルートヴィヒ(1848年 - 1899年)
三男 フェルディナント(1849年 - 1891年)
四女 オイゲーニエ(1851年 - 1938年)
四男 フェリックス(1854年 - 1879年)
子供が増えるに従って、シューマンの収入だけでは生活費が足りず、1840年台のクララは
ひっきりなしに妊娠しながら、家計を支えるためにヨーロッパを回って演奏会を行っており、
大変なハードスケジュールであった。
この経験からか、彼女自身は「子供は3、4人で十分」という言葉を残している。
『森の情景』、『子供のためのアルバム』は子供たちに囲まれた暮らしの中で作曲された。
【精神障害の発症】
1844年ごろから幻聴、ひっきりなしの震え、高所や鋭い金属物などに対するさまざまな恐怖症があり、
幻聴のせいで作曲もできなくなった。
1845年、病気の回復のために気候条件の違うドレスデンへ移住。一時良くなるが、また幻聴、耳鳴りのために
作曲できなくなる。
ライプツィヒに比べ、音楽的に遅れているドレスデンの旧弊さに嫌気が差したシューマン夫妻は、
友人からのデュッセルドルフの音楽監督を譲りたいという手紙の内容を受諾し、1850年デュッセルドルフへと移住。
最初のコンサートは成功を収めるが、右手の不自由のためにしばしば指揮棒を取り落とし、ミサ曲の演奏では
曲が終わり、神父が祈祷を唱え始めたにもかかわらずまだ指揮を続けるなどの問題が起こる。
このころ顕著になり始めていた自閉癖のために、自分の考えをオーケストラに明瞭に伝える
能力にも欠けることが露呈し、シューマンの名声は急速にしぼんでいく。
その後もトラブルが頻発。病気の進行に伴って彼の身体機能が犯され、動作、言葉、
聴力などが均衡の取れないものになっていったと思われる。
【ブラームスの来訪】
1853年9月30日、当時20歳のヨハネス・ブラームスが紹介状を携えてシューマン家を訪れた。
ブラームスがピアノの前に座って自作のソナタを弾き始めると、何小節も進まないうちに
シューマンは興奮して部屋を飛び出し、クララを連れて戻ってきて
「さあ、クララ、君がまだ聴いたこともないほど素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ。
君、もう一度最初から弾いてくれないか」といった。
「彼が成長するにつれて、私は消えゆくのみ」と語り、シューマンはライプツィヒの音楽出版社に
手紙を書いてブラームスを紹介するとともに、10年ぶりに評論の筆を執って「新しい道」と
題した有名な論評を「新音楽時報」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した。
深く感謝したブラームスは、シューマンのもっとも忠実な弟子となり、シューマンが
絶望のどん底にあるときも変わらぬ友情を示した。
【自殺未遂~亡くなるまで】
1854年2月20日、シューマンは罪と悔恨に打ちひしがれ、自分は罪人で地獄に落ちるのだといって聖書を読み続けた。
その後も発作と小康状態を繰り返したが、2月26日夜、シューマンはもはや分別を保てず、
このままでは妻や子供たちを傷つける恐れがあるとして自分を精神病院に入れるように言い、
身の回りの整理を始めた。
翌2月27日、クララと医師が話し合っている隙にシューマンは家を抜け出し、
ガウンとスリッパのままの姿でライン橋まで行き、ライン川に身を投げた。
シューマンが川に飛び込むところを漁師が目撃しており、彼は救助され家に連れ戻されたが、
精神病院への入院を望み、ボン近郊のエンデニヒにある療養所に収容される。
この時クララは四男フェリックスの妊娠中で、消耗の極みであったため、医師はシューマンに
会うことを許さず、また彼の自殺未遂についても教えなかった。
2年の月日をシューマンは療養所で過ごすことになる。
シューマン自身は回復できると考えていたが、しかしその望みは日毎に薄れ、発音が困難になり、
感覚の鈍磨が聴覚、味覚、嗅覚にまで広がった。
1856年7月23日に危急を知らせる電報を受け取ったクララは7月27日にエンデニヒに着き、2年ぶりに
シューマンと再会した。
「それは夕方6時から7時のころのことでした。彼は私を認めて微笑み、非常な努力を払って
―もうその頃、彼は四肢の自由がきかなくなっていました―彼の腕を私に回しました。
私はそれを決して忘れません。世界中の宝を持ってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」
とクララは述懐している。
1856年7月29日午後4時、シューマンは46歳の生涯を閉じた。
【シューマンの死因】
これについては100年近くの間、医学界では謎とされていた。
シューマンが入っていた療養所のリヒャルト博士の最終的判断は梅毒による全身麻痺だったとしているが、
シューマンの病状に関するカルテがエンデニヒの療養所から消えてしまい、この結論は確認できなくなった。
1959年、精神病理学と神経病理学の専門家、マリオット・スレイターとアルフレッド・メイヤーは
共同論文を発表し、医学的な証拠を残らず再調査した結果、シューマンのすべての病状に適合するのは
第三期梅毒しかないという結論を下した。
その後、1994年にリヒャルト博士によるシューマンのカルテが公開され、シューマンの死因が
梅毒による進行性麻痺だったと報道された。
Wikipediaより引用
これ以下はプロフィール、スキル、ボイスで出てくるネタの解説。
Q:スキル「苦谷でも絶望することなかれ」って?
A:シューマンの作品の一つ、作品番号93番『苦しみの谷においても絶望することなかれ』から。
ミサ曲を管弦楽伴奏に編曲し直したもの。
Q:趣味「ジャン・パウルの詩」
A:実家が出版業のシューマンはかなりガチめの文学オタク。ジャン・パウルに関しては、
信者というべき傾倒っぷりだった。
「ジャン・パウル?俺も好きー」と言ってきた相手が自分より深く読み込んでいない、
傾倒していない場合は敵とみなすレベル。
Q:長所に「浮気性」ってあるぞ
A:↑の生い立ちでも述べているのだが、15歳くらいのとき3人の女性と同時に付き合っているシューマンさん。
あと死因の梅毒、これは性交渉から感染する病気です。享年から逆算して1830年頃が感染したタイミングに
なるが、この頃のシューマンはピアニストとして名が売れ始めた頃。居酒屋やレストランを飲み歩き、
ダンスパーティーやカーニバルの仮装大会などにも顔を出して地元の娘たちからも好かれたんだとか。
「ハイデルベルクの人気者になった」と手紙で自慢している。つまりはそういうことかと。
Q:なんで霊感高めてるの?(贈り物、マイページにて)
A:「天使の声を聞いたんだ!」と言って作曲したことあるシューマン。(『天使の主題による変奏曲』)
おそらくは精神障害による幻聴だが…。
川に飛び降りる少し前には降霊術の本を読んでいて、次女エリーゼと霊媒実験をし始めたところを
弟子に見られている。
さらにはシューマンの霊が出て来る逸話がある。
共演のきっかけにヨーゼフ・ヨアヒムに送られた『ヴァイオリン協奏曲』。しかし彼は自筆譜を封印し、
この曲を演奏することは無かった。
『天使の主題による変奏曲』と一部メロディーが酷似しているために、クララも「決して演奏してはならない」
と家族に言って聞かせていた。
時は流れ、1933年。
ヨアヒムの甥の娘でヴァイオリニストのイェリ・ダラーニが降霊術に参加した。 ん?
彼女はシューマンの霊から「私の作品を見つけ出して演奏してほしい」と頼まれた。 ん!?
そうしてベルリンの図書館に寄贈されていたヨアヒムの蔵書の中からヨアヒムの自筆譜が
発見された、というお話。
誰が演奏するかでひと悶着あり、ダラーニが初演を務めることはできなかったのだがそれはまた別の話。
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