フランツ・リスト(1811~1886)
ハンガリー生まれの作曲家・ピアニスト。
ゲーム中の発言にもあるとおり、パガニーニの影響を受けた圧倒的な超絶技巧から『鍵盤の魔術師』の異名をとり、19世紀を代表するピアニストとして君臨した。
また、青年時代には端正な容姿でも知られ、彼の演奏会(現代でも開催されるピアノ演奏のみのリサイタル形式はリストが史上最初に行ったとされる)では感極まった女性客がしばしば失神したといわれている。
ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。
特にマリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。 2人の間には3人の子供が産まれている。その次女が、後のリヒャルト・ワーグナーの2番目の妻 コージマ・フランチェスカ・ガエターナ・ワーグナーである。
リストの孫として ジークフリート・ワーグナーが生まれている。
だが、1844年にはマリーと別れる事に。
再びピアニストとして活躍したが、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで、当地の大地主であった カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだが、 カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。
1848年にはヴァイマルから宮廷楽長として招かれた。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマルで作曲に専念している。
主な作品に『愛の夢』や『巡礼の年』、そしてスキル名にもなっている『ラ・カンパネッラ』があるが、この曲はもともと”パガニーニによる大練習曲”であり、その名の通りパガニーニがヴァイオリンの練習用に作曲したものをリストがピアノ曲として編曲したものであって、リストのオリジナルの曲ではない。
ピアノ曲がよく知られているが、一方で管弦楽曲も多く残しており、本作の副題でもある「交響詩」(文学的な標題を持ったオーケストラ曲)は彼が創始したものである。
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| | 交響詩
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交響詩の起源は、古典派以前のオペラや劇付随音楽の序曲に見ることができる。 これらの序曲は普通、歌劇全体の粗筋や雰囲気をあらかじめまとめて伝えるように作られる。
※1847年頃 セザール・フランクは【交響詩】として『人、山の上で聞きしこと』を作曲しているが 一般的にはフランツ・リストが創めての【交響詩】とされている。
19世紀中頃、フランツ・リストが音楽外の詩的あるいは絵画的な内容を表現する管弦楽曲の一ジャンルとして【交響詩(独: Sinfonische Dichtung )】と命名した。
リストは、フランクの同名作品と同じく、ヴィクトル・ユゴーの詩集「秋の葉」による『人、山の上で聞きしこと』(1849年)を第1作とし、 ゲーテによる『タッソー、悲劇と勝利』、 ラマルティーヌによる『前奏曲』、 ユゴーによる『マゼッパ』など、1882年までに13曲の交響詩を残した。
13曲の交響詩のうち12曲は1857年までに集中して作曲された。
ほぼ同じ頃、リストと親交があった若き日のベドルジハ・スメタナは
- 『リチャード三世』(1858年)
- 『ヴァレンシュタインの陣営』(1859年)
- 『ハーコン・ヤルル』(1862年)
の3曲の交響詩を作曲している。
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