ガブリエル・ユルバン・フォーレ(1845年5月12日 - 1924年11月4日)
代表作は《レクイエム》、その他2つの大作歌劇があるが現在ではほとんど上映されず、歌曲単体や管弦楽曲、室内ピアノ・ヴァイオリン曲などが残っている。
作品の傾向として当時大きな影響でありどの作家もその作品との付き合い方、対処を迫られたワーグナーに影響は受けつつも抑え、その亜流となりはしなかった。
また、サン=サーンスの古典主義にとどまることはしなかったがかと言って当時の流行を追わず、古典的な手法による作曲を続けた。そのためフォーレは音楽史に残る新しい様式や劇的表現を残すことは一切なかったが、
和声の領域では、フォーレはシャブリエとともに、ドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しといえる存在であり、19世紀と20世紀をつなぐ役割を果たしている。
シャブリエやダンディと交流があり、『バイロイトの思い出』をシャブリエと共作
フォーレの『チェロ・ソナタ第二番』をダンディが「一晩たったいまでも、君の美しいチェロソナタに魅了されつづけている。真の傑作だ」と手紙で称した
歌劇『ペネロープ』ノ最後の場面のオーケストレーションでダンディの弟子の手を借りた などの記録がある
教師の父の下の5男1女の末っ子、家族に音楽関係者は居なかったが
教会のリード・オルガンを触るうち天性を見出される。
9歳でパリのニーデルメイエール古典宗教音楽学校に入り後に赴任したサン=サーンスにピアノと作曲を師事、その後も深く交流した。
卒業後は旅先で教会オルガニストになるが、仏に戻ったとき勃発していた普仏戦争に志願
その後パリで再びオルガニストに、フランス国立音楽・演劇学校の作曲科教授にもなり門弟にラヴェルが居る。
その後<ラヴェル事件>(ラヴェルが何度も)により音楽院院長となり、数々の改革を実施、音楽教育者として優れた実績を残した。
1871年にはサン=サーンス、フランクらとともにフランス国民音楽協会の設立に参加している。
オルガニストであったことから敬虔なクリスチャンであった、というわけではなく若い頃は特に享楽的であり、のちも複数の愛人と関係を持った。
晩年には難聴や高い音が低く、低い音が高く聞こえる特殊な聴覚障害に悩まされ、パリで肺炎により亡くなり、マドレーヌ教会で『レクイエム』の演奏される中国葬が行われ、パリのパッシー墓地に葬られた。
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