元ネタは、恐らく誰もが小学生の頃一度は肖像を目にしたことがあるであろう、ドイツが生んだ偉大な作曲家”ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン”(1770-1827)である。
今でもよく耳にする『エリーゼのために』やスキルにもなった『交響曲第5番(通称:運命)』等数々の名曲を生み出した人物である。
― その生涯 ―
1770年12月16日頃、現在のドイツのボンにおいて、宮廷歌手である父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリアとの間に生を受ける。
この時期、一家は宮廷歌手であったベートーヴェンの祖父ルートヴィヒの支援により生計を立てていたそうである。
(父ヨハンも宮廷歌手であったが、無類の酒好きであったため収入は途絶えがちだった)
1773年に祖父ルートヴィヒが亡くなると一気に生活は困窮。ベートーヴェンは、1774年頃より父ヨハンからその才能を当てにされ、虐待とも言える苛烈な音楽のスパルタ教育を受けた。これが祟り、彼は一時期音楽そのものに対して嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。
11歳の時、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事し、その後16歳の頃にモーツァルトに弟子入りを志願するも叶わず(後述)、同時期に起きた母の死去の後は、アルコール依存症となり失職した父に代わって、仕事を掛け持ちして家計を支え、酒浸りの父や、幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごしたとされる。
1792年ハイドンに才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住、(同年12月に父ヨハンが死去)、その後間もなく、ピアノの即興演奏の名手として名声を博すこととなった。
1802年丁度20歳代後半に差し掛かったこの時期より、持病であった難聴が徐々に悪化。音楽家として聴覚を失うという絶望感から自殺も考えたようだが、何とか立ち直っている。(この時甥宛てに記した遺書は『ハイリゲンシュタットの遺書』と呼ばれている)
その後、1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって自身を代表する多くの傑作を生み出した。
しかし、持病である難聴の悪化は止まらず、40歳になる頃には完全に耳が聞こえなくなり、また、神経性の腹痛や下痢にも苦しめられた上、おまけに、非行に走ったり自殺未遂を起こしたりしていた甥の後見人として苦悩するなどしていた。
そんな苦悩の中にあっても作曲活動を続け、数々の傑作を生み出し続けていたが、1826年12月肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなどして、病床に臥してしまう。
病床にあっても、10番目の交響曲に着手していたが、未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変により56年の生涯を終えた。
その葬儀は、2万人もの人々が駆けつける盛大なものとなった。ちなみに、この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。
― ハイドンとベートーヴェン ―
ルイーゼ本人が言っている通り、ハイドンとは師弟関係だった時期がある(この時ハイドン60歳 ベートーヴェン22歳)
しかし、その時期はハイドンにとって非常に重要な時期であり、イギリスへの演奏旅行や代表曲の制作を精力的に行っていた。このため弟子になったばかりのベートーヴェンにまで目が行き届かず、結果「何一つ教えてくれなかった」という事態になった。
(ハイドンからしてみれば沢山居る弟子の中の一人、それも新入りなので、無理からぬ話ではあるが…)
このため、この師弟関係は僅か1年程で解消されてしまっている。
その後名声を博したベートーヴェンに対しハイドンは、ベートーヴェンの作曲した楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じたが、当のベートーヴェンには「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねられている。
― モーツァルトとベートーヴェン ―
モーツァルトとの関係については、そもそもベートーヴェンが父親であるヨハンによってピアノを始める事になった原因が、当時宮廷ヴァイオリニストだったモーツァルトの存在である。
モーツァルトの才能はまさに天才と呼ぶに相応しく、当時宮廷歌手であったベートーヴェンの父ヨハンの年収8年分を僅か3時間の演奏で稼ぎ出していたそうである。
父ヨハンは、息子であるベートーヴェンの才能による稼ぎを当てにして、苛烈極まるスパルタ教育を行ったとされている。
そんな複雑な境遇ではあるものの、確かに憧れの人ではあったようで、16歳の時ウィーンを旅していたベートーヴェンは、モーツァルトの元へ弟子入りを志願しに行ったのだが、運命の悪戯か、母マリアの病状悪化の報によって帰郷せざるを得なくなり、結局この弟子入りの願いが叶う事はなかった。(なお、母マリアはこの後程なくして肺結核によって亡くなっている)
ちなみに、肝心のモーツァルトからの評価は、「この青年は立派な音楽家になるに違いない」と予言したという類の記事が残されているなど、悪くはなかったようである。
― 難聴とベートーヴェン ―
ルイーゼ本人が難聴設定となった原因は、言うまでもなく元ネタとなったこの人物が聴覚障害持ちだったからである。
なお、原因は諸説あるが、鉛中毒説が通説とされている。
余談ではあるが、生み出された数々の譜面の中には、完全に耳が聞こえなくなった後で作曲された譜面もあり、一説によれば、ピアノに顔を当てて、骨伝導で音を感じ取っていたのではないかとも言われている。
― 引っ越しとベートーヴェン ―
ベートーヴェンは、部屋の中が乱雑だったことで有名で、生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことが知られている。
なお、潔癖症に近い清潔好きであったと言われている一方で、基本的に服装に無頓着だったようであり、弟子の一人曰く「(初めてベートーヴェンに会った時)ロビンソン・クルーソーのよう」とか、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱かれたりしている。
また作曲に夢中になって無帽で歩いていたら、浮浪者と誤認逮捕されて後でウィーン市長が謝罪するという珍事も起こしている。
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