ニコライ・アンドレイエヴィッチ・リムスキー=コルサコフ*1 1844-1908
ロシア五人組の最年少で、おそらく五人のうちで最も有名かつポピュラーな作曲家。
ロシア五人組(「メドヴェーチ五人娘」の元ネタと思われる)というのは、ロシア国民楽派の作曲家グループのこと。
ロシア語ではモグチャヤ・クーチカ(Могучая кучка)で、直訳すると「力強い仲間たち」くらいの意味。
リーダー格のバラキレフを中心に、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフが構成メンバーで、
バラキレフを除き、みな作曲以外の仕事*2を持っていたことでも知られる。
リムスキー=コルサコフは軍人貴族の家庭の生まれ。幼児期より楽才をあらわすが、12歳で海軍兵学校に入学し、海軍軍人の道に進む。
艦隊による海外遠征での経験が、その後の作風に大きな影響を与えたとも言われる。
1859年からピアノを始め、1861年に恩師と出会い、ようやく真剣に作曲に目覚めていった。
1861年(~1865年)、まだ海軍在籍中に完成させた《交響曲第1番》*3は、「ロシア初の交響曲」と呼ばれた*4。
1867年には管弦楽曲《サトコ》の初稿、1872年には歌劇《プスコフの娘》を完成。
1871年にはペテルブルク音楽院から作曲と管弦楽法の教授に任命される。
門下からはリャードフ、アレンスキー、グラズノフ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフなど多くの優れた作曲家が出た。
1872年にはナジェージダ・プルゴリトと結婚。1873年に軍籍離脱する事に。
貴族の出身ながら近代化の遅れたロシア帝国の政治には批判的で、学生運動にも同情的だった。
そのためか、1905年には政府批判を行なったのを理由にペテルブルク音楽院の教授職を解雇されてしまう。 彼を慕った職員たちが一緒に辞めていく事態に発展した為、最終的には復職できたものの、政府との軋轢は残り、 遺作となる歌劇《金鶏 Le Coq d'Or 》は風刺的な台本が検閲に引っかかって、 初演が死後の1909年まで遅らされてしまった。
奥さんとの間には七人の子供をもうけた。
オーケストレーションが上手な作曲家として知られ、その作品はしばしば「色彩的な音楽」「きらめくが如き響き」などと表現される。
彼の著した管弦楽法の教科書はラヴェル、ドビュッシーら後世の作曲家にも多大な影響を与えた。
また、自らの創作活動の傍ら、早世したムソルグスキーやボロディンの遺した未完の作品の補筆にも力を注いだ。
今日ムソルグスキーの代表作として知られる交響詩『禿山の一夜》は、
原曲よりもリムスキー=コルサコフによる編曲版の方が有名だったりする*5。
代表作は交響組曲《シェヘラザード》や、《熊蜂の飛行》*6、《スペイン奇想曲》など。
(スキル「復讐の喜び」の名前は、交響曲第2番(のち交響組曲)《アンタール》の第2楽章の標題からとられているようだ。)
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