モデルとなった人物はフランスで活躍したベルギー出身のヴァイオリニストで作曲家のアンリ・ヴュータン(1820/2/17-1881/6/6)。
フランス語ではHenri Vieuxtempsと書く。
多くの日本人ヴァイオリン少年・少女たちが初見で読めなかったであろうVieuxtempsは、この人ヴュータン。
名前もHenriと書いてアンリなので、フランス語に馴染みのない人には厳しいHenri Vieuxtempsの読み方…。
【経歴】
1820年2月17日
リエージュ州ヴェルヴィエの職人の家系に生まれる。
父はアマチュアの弦楽器職人でヴァイオリン弾きであった。
1826年ごろ
ロード(P. Rode)の作品で公開演奏会デビュー(6歳)。
1829年
ド・ベリオの紹介でパリにてロードの協奏曲を演奏(8-9歳)。
1830年
パリで七月革命が勃発(10歳)。
同年、師匠ド・ベリオの駆け落ち騒動もあってベルギーに帰国。
1833年
ドイツに演奏旅行(12-13歳)。
この時シュポーアやシューマンと交流し、シューマンから「小さなパガニーニ」の愛称を付けてもらう。
1835年
ウィーン音楽院に留学(15歳)。
対位法や作曲を主に学ぶ。
1844年
アメリカ演奏旅行の後、ウィーンのピアニストジョセフィーヌ・エーダーと結婚(23-24歳)。
1846年
ロシア帝国のニコライ1世に宮廷音楽家、帝室劇場主席奏者に任命される(25-26歳)。
この年からペテルブルク音楽院にヴァイオリン教師として勤め、ペテルブルクにも住居を構える。
1850年
ブリュッセルにてヴァイオリン教師として弟子を取る(29-30歳)。
最も高名な教え子はウジェーヌ・イザイであろう。
1852年
フランクフルト近郊に居を構える(31-32歳)。
1866年
パリを拠点に国を跨いだ演奏活動をおこなう(45-46歳)。
1868年6月19日
妻ジョセフィーヌがコレラによって死去(47-48歳)。
1871年
ブリュッセル音楽院の教授となる(50-51歳)。
1873年
脳卒中に見舞われ右半身が不自由になってヴァイオリンを弾くことができなくなる(52-53歳)。
これに伴って音楽院を退職し、後進の育成を同僚のヴィエニアフスキに託して作曲に専念。
自分の作曲した曲を自分で演奏できない状況に苛立っていたという。
1879年
脳卒中が再発し、脳性麻痺の増悪により演奏家としての活動が絶望的となる(58-59歳)。
暖かい地方で暮らした方が麻痺の回復にはよいと医師に勧められ、
ヴュータンはブリュッセルやパリなど、華やかな音楽・芸術の中心を離れ、
娘夫婦が暮らしていたアルジェリアの大ムスタファ療養所にて療養生活に入る。
1881年
アルジェリアで馬車にて移動中に、酔漢の投げた石が頭部に当たり、
その傷が原因となってムスタファ・レザルジェにて死亡。61歳であった。
ネリー・ヴュータンの髪の毛が鮮やかなピンク色なのは、あるいは元ネタのアンリの悲惨な最期を反映してのことなのかもしれない。
【人物】
ヴァイオリニストとして技巧に優れ、1930年代にヨーロッパ各地を巡った演奏旅行では、
一般の聴衆は勿論、ベルリオーズやパガニーニを驚かせた。
またヴァイオリンの技巧のみを追求するのではなく、作曲の勉強を重ね、
その結果、協奏曲第一番は1850年のパリ初演を聴いたベルリオーズに、
「ヴァイオリンと管弦楽のための格調高い交響曲」と言わしめた。(尤も、こんにちあまり人気のある作品とはいえないが…。)
また、ベルリオーズはヴュータンのことを作曲家として非常に高く評価していたようで、
「(ヴァイオリニストとして)偉大な名手でなければ、偉大な作曲家として称賛されるだろう」、としている。
ヴァイオリニストとしてのレパートリーでは、派手な技巧を含んだ自作曲を演奏する一方で、
ベートーヴェンやメンデルスゾーンなど音楽的に優れている(が、地味にも聞こえる)曲を積極的に取り上げ、
上辺の華美を競う他の演奏家たちとは一線を画していた。
彼の人生は、40代半ばまでは順風満帆であったといえよう。
しかし妻の死、脳性麻痺によるヴァイオリニストとしての突然の終焉、
華やかなヨーロッパの音楽界を遠く離れたアフリカでの生活がヴュータンを憂鬱にし、
彼の晩年の作品に暗い影を落としているものだといえる。
ヴァイオリニストとしての華々しいキャリアを終えたヴュータンは、
ヴィオラやチェロのための佳曲を書き残している。
それは影があり、憂鬱で、また真摯な音楽であり、
もはや戻らない輝いていた日々への憧憬の音楽ではなかろうか。
【音楽史におけるヴュータンの位置】
作曲においては、ヴァイオリン協奏曲として初めてシンバル(第一番)やハープ(第四番)を使用し、
各楽章の連続性を意識するなど、実験的な試みをおこなっている。
とはいえ、その試みが後のヴィルトゥオーゾ作曲家たちに直接継承されていったという訳ではない。
ヴァイオリニストあるいはヴァイオリン教師としてのヴュータンは、
フランコ=ベルギー派(楽派とも)に位置づけられる。
この派に属する有名なヴァイオリニストには、ド・ベリオやイザイ、グリュミオー、デュメイなどがいる。
ヴァイオリン弾きにはお馴染みの弓の持ち方の三大派閥、
「ドイツ式」「ロシア式」「フランコ=ベルギー式」の一角をなす派閥であり、
それらのなかではバランス型、あるいは中途半端といわれることもある…。
【おすすめの曲】
・ヴァイオリン協奏曲第4番(全曲で25分弱)
第1楽章と第2楽章が連続して演奏される。
ヴァイオリン協奏曲としては初めてハープを使用した曲で、
ヴィルトゥオーゾ的な技巧を誇示する部分と交響的部分のバランスが優れている。
ヴァイオリンソロがウニョウニョと蠢く、一聴して凄みがわかる終楽章のとある部分は必聴。
・ヴァイオリン協奏曲第5番「ル・グレトリ」(全曲で20分くらい)
もともとは1861年、ブリュッセル音楽院の卒業試験の課題曲用に作曲された。
のち1878年にパリ音楽院の卒業試験用の課題曲として改訂された。
単一楽章で構成されているが、急―緩―急の三つの部分からなる。
副題のグレトリとは作曲家の名前で、グレトリのオペラ「ルシール」の旋律を曲中に用いていることから。
分かりやすく格好良く、魅力的で技巧的な、ヴュータンの入門編。
但し弾く方はそれなりに大変である。
・ヴァイオリン協奏曲第7番「イェネー・フバイに捧ぐ」(遺作Op. 3)(全曲で20分弱)
未完の協奏曲で、オーソドックスな三楽章構成。
献呈されたフバイの手によって完成されたが、ヴュータン本人の部分とは出来に差があるとも。
とはいえヴュータンの最後の協奏曲である。
彼の晩年に思いを馳せながら聴いてみてほしい。
・ヴィオラとピアノのためのエレジー(全曲で7分強)
ヴュータンがヨーロッパで華々しく活躍していた1854年頃の作曲。
弦楽四重奏を演奏するときにはヴィオラを弾いていたというヴュータンが、
実はヴァイオリンよりも好きだったのでは?とさえ思われるヴィオラのために書いた曲である。
美しい旋律が愛されて、ヴィオラソロの演奏会ではかなりの確率で演奏される。
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