メンデルスゾーンさんの元ネタは、19世紀初頭のドイツ・ロマン派の作曲家であるフェリックス・メンデルスゾーン(ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ,1809年2月3日 - 1847年11月4日)である。
劇付随音楽『夏の夜の夢』(特に「結婚行進曲」が主にチャペル挙式の新郎新婦退場などでよく使われる。パパパパーン)や交響曲第4番『イタリア』、ヴァイオリン協奏曲、無言歌集などの曲を作ったことで知られている。
彼はユダヤ人の裕福な銀行家である父アブラハム・メンデルスゾーン、母レア・ザロモンのもと4人兄弟の2番目として生まれた。(姉ファニー、フェリックス(本人)、妹レベッカ、弟パウル)
姉のファニー・メンデルスゾーンも当時名ピアニストとして名を馳せていたが、おそらく彼女がメンデルスゾーンさんの姉フェネーラの元ネタであろう。
メンデルスゾーンは非常に聡明であることで知られ、一度見た楽譜や一度聴いた音楽を完璧に記憶する能力を有していたと言われている。
そのことを表す逸話として、『夏の夜の夢』の序曲を書いた譜面を引越す際に紛失してしまうも、記憶だけを頼りに全てまた書き出して見せたというものがある。
後に初稿の楽譜が発見されるが、書き直した楽譜と元の楽譜は7箇所が異なるだけで、後は完璧に同じだったという。(しかもその7箇所すら間違えたのではなく「直した」という話だとか)
さらに作曲家としてのみならず演奏家、指揮者、編集者、教育者としても活動しており、それぞれの分野で非凡な才覚を発揮していた。
しかしメンデルスゾーンの一番の功績はバッハの復権に尽きよう。
19世紀初頭のバッハの扱いと言えば、代表作『平均律クラヴィーア曲集』を中心にモーツァルト、ベートーヴェン、ショパンなど一部の大作曲家からは絶賛されていたものの、
一般には時代遅れも甚だしい100年前の数物のオルガン弾き、そういえば何か知らんけど作曲の真似事もしてたっけ…そんなぞんざいな扱いであった。
この無名な作曲家(というより演奏家が趣味で作った扱い)の『マタイ受難曲』という大曲を"1世紀ぶりの復演"と称して自ら指揮棒を執り蘇演を果たしたことがきっかけでバッハの音楽を見直す機運が高まり、果てには「音楽の父」「大バッハ」とまで呼ばれるようになった。
今でもみんながバッハの素晴らしい音楽を聴けるのだってメンデルスゾーンのおかげで、彼がいなかったら今の人たち誰もバッハのバの字も知らないよ?っていう話で。
しかもこの「音楽の歴史を変えた大偉業」を御年20歳で成し遂げたというから怖れ入るしかない。
他にも
- 子供の頃にベートーヴェンの交響曲を9曲全部ピアノで(しかも譜面なしで全部暗譜で!)弾ききった。
- 青年期には多数の言語を自在に操り、ドイツ語、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語までも話していた。
- 詩作や絵画(鉛筆画や水彩画)にも興味と関心を持ち(特に水彩画に関しては多くの作品を残している)、その実力はプロの画家顔負けだった。
- 膨大な書簡の中には手紙の中で文字と共に面白おかしいスケッチや漫画が添えられていたという。
など、彼の天才っぷりに関する逸話は数多く存在する。
だが一方でその天才ゆえにナチュラルに周囲を見下していた節もあり、そのよそよそしさゆえに「不機嫌なポーランド伯爵」と言うあだ名を付けられた事もあった。(本人自身も残されている書簡の中でこのあだ名について触れている)
また一時的に極度の興奮状態になり周囲を戦慄させたこともあるという。
また裕福なユダヤ人銀行家の息子であり(父の代からキリスト教に改宗していたが)、
ユダヤ人というだけでいわれない差別を受けており、特にワーグナーには彼の著作である『音楽におけるユダヤ性』において名指しで糾弾されてしまった。
その上メンデルスゾーンは脳卒中のため38歳の若さで亡くなってしまうが、ワーグナーに批判されたことがきっかけで作曲家としてもドイツ全体で貶められてしまうこととなった。(哲学者のニーチェにも「ベートーヴェンとワーグナーの幕間である」と評されている)
特にナチス時代は、反ユダヤ主義から彼の曲の演奏が全面的に禁止され、代表曲『夏の夜の夢』を書き換えることを提案され、歴史の教科書からも名前が消され、挙げ句の果てにはライプツィヒのメンデルスゾーンの銅像を撤去されるほど酷いものであった。
現在は彼の多くの曲やバッハ再興のきっかけとなった点が再評価され、徐々に作曲家としての名誉を取り戻しつつある。
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