元ネタはチェコを代表する作曲家、アントニン・ドヴォルザーク(1841~1904)。
誰もが一度は耳にしたであろう交響曲第9番「新世界より」や「ユーモレスク」など、親しみすい音楽を数多く世に送り出したメロディーメーカー。
ブラームスが「ドヴォルザークの屑かごをあされば交響曲が1曲できる」と語ったとされる。
初期はワーグナーの影響を受けていたが、ブラームスに才能を見出されてからは交響曲の形式などにブラームスの影響を強く受けている。
チェコ音楽界の先輩にあたるスメタナが西欧の先進的な手法に着目したのとは対照的に、ドヴォルザークはチェコを含めたスラヴ民族(東欧)の民謡、特にボヘミア地方を思わせる要素を積極的に自作に反映させている。
1892年に渡米したのちは従来の民族的要素を保ちつつ、アメリカの黒人霊歌など新しい要素も取り入れている。
代表作である「新世界より」や弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、チェロ協奏曲(通称ドボコン)もこの頃の作品。
帰国後は様々な名誉を授けられる一方でオペラに傾倒するが、こちらは今日ではあまり有名ではない。
……とまあ、ここまでがクラシック音楽におけるドヴォルザークのお話。
音楽面以外では、自己紹介文にあるように、鉄道好き……というより、かなり重度のヲタだったらしい。
その熱の入れようは、彼にまつわる鉄道エピソードから窺い知ることができる。
・アメリカとチェコではレールの長さで汽車のリズムが違なることに着目したり、いつも乗っている列車の走行音の違いから列車の不具合を見抜いたりした。
・当初渋っていたアメリカ行きだったが、結局彼に渡米を決断させたのが支援者からの熱心な説得、高額の年棒、そして「アメリカの鉄道が見れる」ということ。
・チェコ在住時代はプラハ駅に到着する機関車の番号をチェックするのが日課となっており、用事で行けなかったときに弟子(娘の恋人)に代わりに記録するよう依頼した。
しかし、鉄道素人の弟子は間違った番号を記録してしまい、ドヴォルザークは激怒。娘に「お前はこんなことも分からん男と結婚するのか」とこぼしたという。
ドヴォルザークの作品に鉄道を直接題材としたものはないが、音楽そのものが鉄道描写であると考える(「新世界より」の第4楽章に1回だけ鳴る謎のシンバルを、ブレーキ音と解釈するなど)人もいる。
そのような視点からドヴォルザークの音楽を味わうのも一つの楽しみ方と言えるだろう。
船や鳩ついてもやはり趣味であったらしい。
特に船に関してはアメリカに渡ってから発症し、定期的に波止場に見に来ていたようである。
そんなドヴォルザークであるが、現在ではチェコの国際列車RJ(レールジェット)に「アントニン・ドヴォルザーク」の名が冠されている。
オーストリアのグラーツ、ウィーンとチェコの首都プラハを結ぶこの列車は、ドヴォルザークの他にもマーラー、スメタナ、シューベルト、モーツァルト、ハイドン、J.シュトラウスといった著名な音楽家の名前が付けられている。
「アントニン・ドヴォルザーク」号はその中の1往復、RJ76便・77便にあたる。
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