フェルディナンドと名前の付く作曲家は数多いるが、元ネタはルイ・フェルディナント・フォン・プロイセンだと思われる。
―ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン(Louis Ferdinand von Preußen)―
18-19世紀の人。ナポレオンと同時代である。その彼とは3歳違いであった。
1772年、ベルリンにプロイセン王子フェルディナンドの三男として生まれるのだが、その血統は中々のもの。
まずその父親は、プロイセン王国の王子であり、また聖ヨハネ騎士団のブランデンブルク大管区長でもあった。伯父にはプロイセンを列強に押し上げた「大王」フリードリヒ二世。祖父は「軍人王」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世である。
優れた軍事的才能を持つ彼らと、家系図を共にするフェルディナンドが一流の軍人であることは尤なことであるかもしれない。
―General von Preußen 将軍として-
フェルディナンドの初陣が何時なのかは判らぬが、初めて名を残すのはフランス革命戦争のうちのマインツ包囲戦に於いてである。
彼は負傷しながらも勇猛果敢に攻めかかり、フランス軍の堡塁を破壊するという獅子奮迅の活躍を見せた。
また、攻撃の際に大演説をかまし、兵士を鼓舞し、プロイセン軍を勝利に導いた。
しかし彼の武勇伝はあまり残っておらず、次に登場するのはサールフィールドの戦いである。
ナポレオン率いるフランスとプロイセンの戦い、イエナ・アウエルシュタットの戦いの一環として行われたのがこの戦いである。
彼は王族であるにも拘らず、その驍勇たる性格が為したか、プロイセン軍の先鋒を務めた。
しかし、フランスの名将、ジャン・ランヌ(ナポレオンの腹心の部下としてご存知の方も多かろう)率いる大軍と衝突し、わずか8000の兵でこれを迎え撃った。フェルディナンドはサール川を背に背水の陣をひくも、フランスの名将率いる精鋭の大軍には敵わず、僅かばかりの騎兵のみが残された。
愛国心あふれるフェルディナンドは、配下と共に最後の突撃を敢行するも、第10ハサー連隊に阻まれ、ついに包囲された。降服を促されるも、彼はそれを潔しとせず、勧告を撥ね退け、戦場に散ることとなった。享年34。
因みに、かの有名なベートーベンの交響曲第3番、すなわち英雄交響曲の「英雄」とはナポレオンの事を指すと一般には認識されているが、その「英雄」とは彼の事を指すという説もあるのである。というのも、この曲の第二楽章は英雄の死についての部分であり、作曲当時ナポレオンは健在だったのである。実際のところは誰にも分らぬが、これを知ってもう一度この曲を聴いてみれば、印象が変わるかもしれない…
―Große Komponisten 作曲家として―
彼は偉大な軍人であるだけではなく、優れた作曲家でもあった。
ベートーヴェンを崇拝した彼は、ベートーヴェンからも高い評価を下され、「ピアノ協奏曲 第3番」を献呈された。しかし若くして他界したため、作品数も少なく、知名度も高いとは言い難い。ここにその楽曲を挙げようと思う。
ピアノ五重奏曲 op.1
ピアノ三重奏曲 op.2
ピアノ三重奏曲 op.3
ピアノ四重奏のためのアンダンテと変奏 op.4
ピアノ四重奏曲 op.5
ピアノ四重奏曲 ヘ短調 op.6
ピアノのための4声のフーガ op.7
ピアノ、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、オブリガート・チェロと2つのホルンのためのノットゥルノ op.8
ピアノと管弦楽のためのロンド 変ロ長調 op.9
ピアノとヴァイオリン、チェロのための大三重奏曲 op.10
ピアノと弦楽三重奏曲、オブリガート・コントラバスのためのラルゲットと変奏 op.11
ピアノとクラリネット、2つのホルン、2つのヴァイオリン、2つのオブリガート・チェロのための八重奏曲 op.12
ピアノと管弦楽のためのロンド op.13
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