さて皆様は音楽家、芸術家と言われたらどのような人物を想像するだろうか。
晩年には聴力をほぼ失いながら鉄の意志で譜面に音符を叩き付け続け、後世に残る数多の作品を残した天才だろうか。
病に苦しめられながら幾多の名曲を書き、現在も世界一のコンクールに名前を残すきらめきだろうか。
このエミリオという男、そういった天才とは一線を画した、別種の「天才」である。
ほんの少しだけ、エミリオ・デ・カヴァリエーリという男を読み解いてみよう。
エミリオはローマの音楽家の家系に生まれバロック音楽を学び、やがてオルガニストとなった。
当時の芸術家としては、ごくありきたりな幼少期である。
しかし彼は単なる一演奏家、作曲家の枠に収まらなかった。
ローマの劇場で音楽監督を務めるようになり、果ては興行主にまで上り詰めた。
二十代後半から三十代そこそこの演奏家が興行主まで務めるのは異例と言える。
ましてや正にルネサンス文化が開花し、数多くの芸術家が集まり鎬を削るイタリアのローマにおいて、である。
その才がいかばかりかは推して知れよう。
更にエミリオはこのローマ時代に、かのメディチ家のフェルディナンド1世・デ・メディチと懇意になり、
フェルディナンド1世が1587年にメディチ家の当主を相続した後、
彼に招聘される形で、美術家・工芸家・音楽家の監督としてトスカーナ大公国(フィレンツェ)へと渡っている。
ここで、異論はあろうが結論付けておきたい。
エミリオ・デ・カヴァリエーリという男は、「コミュ力お化け」であると。
数多くの音楽家をまとめ舞台を作り上げ、それを興行として成立させる手腕を持ち、
ヨーロッパに名だたる名家の当主に才能を見込まれ請われるだけの人物的魅力があったのだろう。
自己表現が苦手で職人肌の人物の多い芸術界において稀有な才能だったはずだ。
フィレンツェに渡って以降も、エミリオは動いていないと死んでしまうかのように精力的に活動を続ける。
流行歌は書くわメディチ家の豪華絢爛な催事で進行役を務めるわ、カメラータ・ディ・バルディと呼ばれる音楽家のサークルに参加し
他の音楽家と親交を深めるわと節操がない。
台詞で言及のあるポーラ・ペーリの元ネタ、ヤコボ・ペーリと出会ったのもこの頃のこと。
更にはそのコミュ力を見込まれ、トスカーナ大公国の外交官としても活動を開始。
ローマはじめ近隣各国を訪れては会談や依頼を受けての興行を行っている。
ローマ教皇選挙の際にはメディチ家のために買収活動を行うなどロビイストまがいの動きもしていたようだ。なんなんだこいつは。
晩年はカメラータの同僚(*)に舞台制作を奪われ、それを機にフィレンツェを離れて二度と戻ることはなく、2年後に故郷のローマで没している。
バイタリティの権化のような生き物だったエミリオが脚光を浴び続けたフィレンツェを離れてすぐに没しているのは、
彼の回遊魚的性格の証左であるように思えてならないのは筆者だけだろうか。
エミリオ・デ・カヴァリエーリは、音楽史に燦然たる功績を残すビッグネームとは言えないかもしれない。
(エミリアーナも自覚しているようで、マイページであんまり有名じゃないなどと言う)
だが、ルネサンス末期のイタリアのど真ん中で、貴族や宗教家の中を泳ぎながら最先端の様式を取り入れた「人々を喜ばせ、泣かせる」作品を書き、
作曲するだけなく興行主として自らの手で届け続けたエミリオが音楽史の大きな一部であることは間違いないだろう。
▽主な作品
『大公のアリア』
『エレミアの哀歌』
『魂と肉体の劇 [Rappresentatione di Anima et di Corpo] 』スキル名の元ネタ。
オラトリオ(聖譚曲)の土台となった作品で、マイページ台詞にある歴史に残るくらいの作品はこのこと。
参考:Wikipedia
*ジュリオ・カッチーニ。彼も優れた音楽家であるため登場が期待される。
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