ジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa、1854年11月6日 - 1932年3月6日)
アメリカの作曲家、指揮者。
『ワシントン・ポスト』、『星条旗よ永遠なれ』など100曲を越えるマーチのほかオペレッタや組曲などを作曲。
19世紀のバンド音楽発展に貢献したこと等により多くの人々から「マーチ王」と呼ばれる。
マーチングバンドなどでよく用いられるマーチング用チューバ「スーザフォン」を考案した人物でもあり、1893年にジェームズ・ウェールズ・ペッパー にリクエストして造らせたのが最初である。
スーザはワシントンD.C.に生まれた。
父はポルトガル出身で、大統領直属ワシントン海兵隊楽団のトロンボーン奏者だった。
母はドイツ系である。
周囲に音楽があふれている環境の中で、スーザは自然に音楽と親しむようになり、7歳で音楽の勉強を始め、楽器演奏の他に声楽にも熱中した。
熱中するあまり、勝手に楽団にもぐりこんで演奏に加わったりしたという。
加わった先の一つが少々ならず者の集団だったこともあり、父の紹介で13歳のときにワシントン海兵隊楽団に入団する。
5年間在籍したが、やがてワシントン海兵隊楽団を退団して各地のオーケストラやバンドを転々とするようになり、その最中にはアーサー・サリヴァンなどと親しくなったりもした。
1880年、古巣のワシントン海兵隊楽団から指揮者に指名され楽団に復帰。
「ワシントン・ポスト」や「雷神」はこの時期の作品である。
1892年、デヴィッド・ブレイクリーという興行師の誘いで楽団を辞任し、「スーザ吹奏楽団」を結成。
同年9月26日にニュージャージー州プレインフィールドで第1回の公演を行い、そのまま全米各地への演奏旅行に出発した。
ブレイクリーの根回しが少々雑だったのか、公演は必ずしもすべて成功とは行かなかったと言われる。
1896年、ブレイクリーが急死し、その報を聞いて帰る船の中で浮かんだメロディーを元に作曲されたのが「星条旗よ永遠なれ」である。
「スーザ吹奏楽団」は全米各地のみならず、ハワイや南半球のオーストラリア、南アフリカなどへの演奏旅行に出かけたが、1914年、第一次世界大戦の勃発に伴い、吹奏楽団を解散。
スーザ自身も海軍大尉に任官し、終戦後、退役。最終階級は少佐だった。
退役後は吹奏楽団を再結成し、レコーディングや演奏旅行、そして1922年から始まったラジオへの出演など、大戦前以上に精力的に活動した。
だが、1932年3月6日、ペンシルベニア州レディングでコンサートを開いた後、帰ってきたホテルでその日の未明に急死。
スーザの死により、スーザ吹奏楽団も解散となった。
生前のスーザは音楽以外にも多彩な才能を見せており、3篇の小説と自伝を著しているだけでなく、クレー射撃においても高い技術を有していた。
―――ここまでwikipediaより引用―――
ジョスの特技がクレー射撃で、得物が管楽器型のショットガンなのは、スーザがクレー射撃を得意としていた事に基づいている(ご存知の方も多いと思うが、クレー射撃はショットガンを用いる射撃競技)。
趣味の「小説を書く」はスーザが実際に小説を出版した事によるもので、「自分の吹奏楽団を結成し、各地で演奏する」という夢も「スーザ吹奏楽団」が精力的に演奏旅行をしていた事に基づくものである。
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スキル「音楽院よ永遠なれ」について。
モチーフはスーザの代表曲の一つである「星条旗よ永遠なれ」。ガールズシンフォニーでは星条旗を音楽院に置き換えている。
マーチングといえば…で1位2位を争う程有名なマーチ曲。 特に祖国アメリカ合衆国では扱いが別格。
その象徴さから国の公式行進曲として扱われ、「第2の国歌」とも言われるぐらい有名な楽曲である。
元々吹奏楽団のマネージャーが亡くなった事をきっかけに作られた楽曲であり
当時のマーチ曲では珍しく「ダ・カーポ」に相応する戻りがない構成が特徴。
演奏会での演奏時に観客らが手拍子による参加がアメリカ発祥で世界各地に広まっている。
余談だが、歌詞が存在する。
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スーザフォンについて
スーザの功績の1つとしてよく上がる「スーザフォン」。言わば「立奏用チューバ」である。
肩から斜めに掛けて背負う楽器であり、軽量化が施されている現在においても約9kg。チューバと同じ真鍮で作ると12kg程になる。
これはマーチング楽器ではバスドラム(約6~9kg)より重いとされている。
それを背負って相当量の息を吹いて鳴らすため、生半可な体力では数分も持たない。 低音奏者の体力作りはここも重要である。
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