アルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)が元ネタ。
ローマを拠点にスウェーデンやドイツなどでも活躍、当時のヨーロッパ随一のヴァイオリン奏者兼作曲家としてその名を轟かせた人物。
バロック時代の第一人者。
1653年2月17日にイタリア北東部ロマーニャ地方のフジニャーノに生まれ、町一番の名士の一家の息子として社会的な地位、そして経済的にも豊かな家庭で育った。
17世紀当時、音楽家というのは上流階級にはふさわしくない職業と言われており、コレッリの芸術家としてのキャリアは稀なケースであった。
1666年にヴァイオリン音楽の先進地であったボローニャにてヴァイオリンを学び、1670年には17歳という若さで名門アカデミア・フィラルモニカに入学する。
このアカデミアは20歳以上であることが資格であったが、特例で入学を許可された。
この特例はコレッリの他には1世紀を挟んだ後に神童モーツァルトに適用されたのみである。
1675年にはローマに移り、当時システィーナ礼拝堂のコントラルト歌手であり有名な教師であったマッテオ・シモネッリに作曲と対位法を学ぶ。
1679年にはスウェーデン女王クリスティーナの室内音楽師となり、そこで初めて楽譜として印刷されたコレッリの作品である『トリオ・ソナタ作品1』を彼女に献呈した。
クリスティーナはコレッリの有力なパトロンとなった他、彼に大きな影響を与えた。
女王の周囲には文学者や芸術家が集まり、古典古代の牧歌的な世界からインスピレーションを得、「アルカディア」という文芸アカデミアを設立しており、コレッリも1706年には「アルコメーロ」という名前で牧師として加入している。
1687年には枢機卿ベネデット・パンフィーリの後援を受け、彼に『トリオ・ソナタ作品2』を献呈している。
1690年にパンフィーリはボローニャに旅立つと、当時の教皇の甥である枢機卿ピエトロ・オットボーニに仕えるようになる。
彼の自宅であるカンチェッレリア宮では毎週のようにコンサートが開かれ、ローマの名物であったという。
1708年、55歳で引退。作品6の合奏協奏曲の出版作業に取り掛かったが、その出版を見ることなく1713年1月8日に59歳で死去。楽譜の出版は翌1714年のことであった。
サンタ・マリア・デッラ・ロトンダ教会に葬られ、ローマのパンテオンで、ラファエロの墓石のすぐそばに埋葬された。
彼の死後数年にわたり、追悼演奏会が行われたという。
コレッリが亡くなったとき、彼は12万マルクもの大金とブリューゲルやプーサンなど貴重な絵画のコレクション(136枚)とチェンバロ1、バイオリン2、チェロ1、コントラバス1を有しており、楽しみといえば贅沢をすることのみであった。
彼は自分の後援者と召使、友人に遺産を譲ったが、友人は寛大にもその財産をコレッリの親類に返還した。
○影響
コレッリはバロック時代中期最大の音楽家とされ、後世に多大な影響を残している。
ヴィバルディ、クープラン、バッハをはじめとし、細かいところまで入れれば枚挙に暇がない。
ちなみにゲーム内でコレッリを師として敬愛するクープランは実際作品に『コレッリ賛』があるように彼に敬意を持っていたようだが、特にコレッリの弟子というわけではなく直接会ったことがあるかすら定かではない。
・ヴァイオリンの演奏形態について
トリオ・ソナタ
トリオ・ソナタとは二つの旋律と通奏低音からなる室内楽の形態である。
コレッリの書いた作品1~作品4の48曲のトリオ・ソナタはトリオ・ソナタの教科書と言われ、大バッハを始めとした作曲家のお手本となっている。
コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)はコレッリが創始したとされる。
これはトリオ・ソナタを母体としており、コレッリの作品6のタイトル『二つのヴァイオリンとチェロの省略出来ない、コンチェルティーノと二つのヴァイオリン、ヴィオラ、通奏低音の任意のコンチェルト・グロッソのためのコンチェルティ・グロッシ』からそれが見て取れる。
つまり省略できないトリオ・ソナタの部分と、音量のバランスを調整するために省略してもよい合奏体によって演奏するという意味で、原形であるトリオ・ソナタのソロのみでも演奏できるように作曲されているということである。
コレッリの弟子フランチェスコ・ジェミニアーニは自身の作品『コンチェルティ・グロッシ』において、このコンチェルティーノの部分を弦楽四重奏で演奏するよう作曲されている。
これが後に弦楽四重奏曲が生み出されていく新しい音感覚の表れとして注目できる。
また弦楽器奏者はボウイングを完全に一致させるべきだと主張したことでこれが標準化され、今日のオーケストラでも受け継がれている。余計なことを……
他にもバロック音楽や現代のジャズにおいて見られるウォーキング・ベースを普及させた功績があるとされるほか、指導者としての功績も大きい。
どんな名ヴァイオリニストも、指導者を過去にたどれば最終的にコレッリに行きつくと言われるほど。
○作品
彼の残した楽曲は現存するもので100曲足らずと、かなり少ない。テレマン「私が手伝おうかしら?」
というのも彼は完璧主義者であったと言われ、自身で納得のいかない楽譜は全て破棄していたとのこと。
強力なパトロンに恵まれたコレッリは推敲に十分な時間を割く余裕があったとも言われる。
晩年には未発表のほとんどの作品を遺言で破棄させたという。
しかしその甲斐もあり、出版された曲集はいずれも極めて高い評価を受け、次の曲集が待ち焦がれる状態だったとのこと。
彼の作品は超絶技巧と呼ばれるような華麗な名人芸によるものはなく、ハイポジションや重音は少ない。
後述するラフォリアも技術的には現在出版されている多くのヴァイオリン教本に掲載される程度のものである。
その一方でバロック音楽の粋を集めた緻密な音楽は最高峰の音楽家にふさわしいものとなっている。
一説によると、コレッリはヘンデルのオラトリオ『Trionfo del Tempo』の序曲におけるアルティッシモのイ(A)音にまで及ぶ楽節を演奏することを拒み、作曲者がその音を演奏したときに「技術を誇示するためだけにこんな音を弾かせるとは」と痛烈な批判を浴びせたという。
技術に特化せず、あくまで音楽としての質を求める彼のポリシーは、バッハにも受け継がれたとのこと。
ただしこれらの逸話は決してコレッリの技巧が低いことを示すものではない。
コレッリの演奏はヴァイオリニストの第一人者として遜色ないものである。
フランチェスコ・ジェミニアーニはコレッリの音を「甘美なトランペット」に似ていると評した。
ロジャー・ノースは「音楽の覚え書き」(1728年)にて次のように残している。
「驚くまでもない。この偉大な音楽家は、まるで人間の声であるかのようにその楽器で語ったのだから。そして彼は生徒に言いました……『語っているのが聞こえませんか?』」
・コレッリの作品のうち『ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ集作品5 第12番ニ短調《ラ・フォリア》』は彼の代名詞ともいえるバロック音楽名曲中の名曲。
これが収められた曲集は演奏と作曲の模範としてヨーロッパに浸透し、10年の間に10数回、バロックの時代が過ぎ去った19世紀にも20回以上再版される人気ぶり。
「フォリア(Follia)」とは「狂気」を意味する言葉で、イベリア半島の大衆的な舞曲のことを指す。
本来は狂気の名の通り非常に速いテンポのものであったが、17世紀初頭に厳粛なテンポの低音主題を意味するようになり、現在では特にこの曲の主題がその代表となっている。
この曲は変奏曲の形式をとっており、16小節の主題を次々に変奏(アレンジ)させていく。
主題に対してどれほどの変奏を加えることができるかは作曲家の技量の指針ともなったようだが、この曲の変奏は23にも及び、彼の天才的な技量を十分に物語るものとなっている。
この主題は後世の音楽家も用いており、「コレッリの主題」としてラフマニノフが変奏曲を書いている。*1
コレッリはこの曲を重要視しており、コレッリと直接議論したフランチェスコ・ジェミニアーニが彼の著作の中で、作曲の過程に於いてコレッリが極めて高い充足感に包まれていたこと、そして彼が特別な価値をこの曲に与えていたことをコレッリ自身が独白するのを聞いた、と記述されている。
・コレッリの作品としてもう一つ有名なのは『合奏協奏曲作品6 第8番《クリスマス協奏曲》』であろう。
楽譜には「Fatto per la note di natale(御降誕の夜のために作られた)」と書かれており、曲の最後に置かれたパストラール(田園曲)が、クリスマス音楽としての雰囲気作りに貢献している。
2013年、コレッリの没後300年となるこの年には新たな動きがあった。
ボローニャに住んでいた10代後半のコレッリが作曲したと推定される12曲の『ヴァイオリン・ソナタ集』が東京で初演されたのだ。
この楽譜は長い間未出版のままアッシジの聖フランチェスコ寺院の図書館に収蔵されたままになっていて、20世紀末になってようやく発見されたものであった。
コレッリの生誕地で開かれた没後300年記念の学会でも発表され、録音も発表して「音楽史の空白を埋めた」と話題になった。
初演時のバロックヴァイオリン奏者エンリコ・ガッティはこの楽譜を「対位法の扱いには、時にぎこちなさが見られるが、全体としては紛れもなくコレッリ特有のアイデアと手法によって書かれている」と評価。
初期の作品故か、何か所か存在する音楽的な誤りを注意深く訂正し、シンプルなスコアにふさわしい装飾を加えて演奏されたという。
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