ヨハン・シュトラウス2世(ドイツ語: Johann Strauss II. (Sohn), 1825年10月25日 - 1899年6月3日)
オーストリアのウィーンを中心に活躍した作曲家・指揮者。
ヨハン・シュトラウス1世の長男。弟にヨーゼフ・シュトラウスとエドゥアルト・シュトラウス1世、甥にヨハン・シュトラウス3世がいる。
生涯のほとんどをウィンナ・ワルツ、ポルカなどの作曲に捧げ、『美しく青きドナウ』、『ウィーンの森の物語』、『皇帝円舞曲』などのよく知られたワルツを数多く生み出した。
オーストリアのみならずヨーロッパ中で絶大な支持を獲得し、「ワルツ王」、「ウィーンの太陽」、当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と対比する形で「ウィーンのもう一人の皇帝」などと呼ばれた。
のちにオペレッタの分野にも進出して、オペレッタの最高傑作といわれる『こうもり』などを生み出し、「オペレッタ王」とも呼ばれるようになった。
1825年10月25日、ウィーンの数キロ南に位置するザンクト・ウルリッヒ地区のロフラノ通り76番地で誕生した。
シュトラウス家は遠くユダヤ系ハンガリー人の血を引いていることは間違いないと思われるが、このことがヨハン2世の生前に何らかの形で言及された記録は残っていない。
後年、彼はハンガリーに題材をとった作品を多く残しているが、そのことと自らの家系を結び付けた発言も特にない。
また、数世代も前の改宗まで遡って身元調査的にユダヤ人呼ばわりする差別が行われ始めたのはナチスからであるが、ヒトラーが大のシュトラウスファンであったため、遠祖に関して問題にされることはなかったという。
なお、シュトラウスという姓自体がユダヤ固有というのは誤りであり、南ドイツ地方ではごくありふれた名前である。
父は音楽家ヨハン・シュトラウス1世、母は居酒屋の娘マリア・アンナ・シュトレイム。
婚前妊娠であり、母がヨハンを身ごもったと発覚したことが両親の結婚のきっかけとなった。
ヨハンは父の影響により、幼少の時から音楽家に憧れ、ピアノだけでなくヴァイオリンや和声を中心とする楽典を身に付けていく。
父はそんな息子を許せず、密かに買ったヴァイオリンを取り上げ、目の前で叩き壊すなど音楽への興味関心をへし折ろうと躍起になっていた。しかもヨハン1世は愛人を作っており、彼女に入り浸って金を貢ぐようになっていった。
逆に母アンナはヴァイオリンを新たに買い与えるなどして息子を応援していく。
その後も父の妨害は続いたが、ヨハンはこれに抵抗し、やがてデビューを果たすことになる。
だが当時のオーストリアの法律により、音楽家になるには20歳以上でなければならなかった(ヨハンはこの時まだ18歳だった)。
そこでヨハンは役所に行き、「父親が家庭を顧みないために生活が苦しく、私ひとりで母や弟の面倒を見なければならないのです」と涙ながらに訴えた。
有名人の息子の願い出に対し、ついには頑固な役人も首を縦に振り、ヨハンは音楽家になることを特例として許された。
このやり取りは「家族を助ける青年音楽家」という美談としてウィーンに広まり、ヨハン2世の印象を良いものにしてくれた。
そうして父とはライバル関係となり、第二の「ワルツ合戦」が幕を開けた年、母アンナは夫に離縁状を叩きつけ、離婚が正式に成立される。
1846年から1847年の間に、シュトラウス親子は同じオペラに基づく楽曲3つをそれぞれ作曲した。これらはいずれもカドリーユであることから、「カドリーユ対決」と呼ばれる。
しかしやがて親子は和解し、音楽上の協力までするようになるが、父ヨハン1世とは1849年に死別することとなる。
この間、革命運動にも参加した。
東欧への演奏旅行に行っていた際、1848年革命が起こり、ヨハン2世は、ただちに祖国に戻ってオーストリア南部のシュタイアーマルクからウィーンの革命のなりゆきを傍観。
そして市民側が優勢と判断し、革命支持者を名乗ってウィーンへ戻った。
そして、『革命行進曲』、『学生行進曲』、『自由の歌』などを作曲し、学生を中心とする若い革命参加者の先頭に立った。
挙句の果てには、当時オーストリアでは禁制だったフランスの革命歌『ラ・マルセイエーズ』を演奏してみせており、このような反政府的活動によって、当時の宮廷からは嫌われてしまう。
だが、ヨハン2世は次第に革命運動に対して嫌気がさし、革命が鎮圧されるとヨハン2世はバリケードを片付け、元の生活に戻ろうとした。
皇帝がフェルディナント1世からフランツ・ヨーゼフ1世に代わると、ヨハン2世は一転し『皇帝フランツ=ヨーゼフ行進曲』を作曲するも、皇帝からは何の反応もなかった。
ヨハン2世はラ・マルセイエーズを演奏したことから、要注意人物として警察に監視されるようになっていたのだ。
警察への出頭を命じられ、この時の様子を激しく細かく尋問された。
ここでヨハン2世は、確固とした思想によるものではなく、単なる出来心にすぎない、と繰り返し供述した。
最後には「もう二度と、このような馬鹿なまねはいたしません。ですから、どうかお許しを」と深く後悔した様子で警察官に誓ったという。
父の死後、シュトラウス楽団を自分の楽団に吸収する。
それまで親子に分散されていた仕事が、父の死によってヨハンのもとに集中するようになったため、この時期のヨハンは非常に忙しく、一晩に舞踏場やレストランを5軒以上も演奏に回ったとされ、馬車の中で作られたワルツもあるとさえ伝えられる。
その多忙さから、しばしば再起不能かと思われるほどの重病に倒れ、1850年には過労によって危篤状態にまで陥った。
見かねた母アンナは1853年、次男ヨーゼフに兄の代役として指揮者を務めさせることを思いつき、ヨハンもこれに同調、更には末弟エドゥアルトをも音楽家の道に引きずり込んだ。
結果的にはヨハンが倒れたことが、弟たちに音楽家人生を歩ませるきっかけとなった。
法律家協会、医師会、技術家協会、芸術家協会などの団体が公開舞踏会を催す際には、決まってヨハンのもとに新曲の依頼が飛び込んできた。
兄弟で仕事を分担するようになってもヨハンの生活は相変わらず多忙をきわめ、「いつも夜会服を着て暮らす男」と呼ばれることもあった。
その後もロシア・パヴロフスクでの公演、オペレッタへの進出、アメリカでの公演を経て、1894年にはヨハンの音楽家生活50周年のための一連の祝賀行事が盛大に催された。
歳を取ってもヨハンは、黒々とした髪、豊かな髭、若々しい肌、伸びた背筋を保っていた。
そのためヨハンはしばしば「永遠の若者」と呼ばれたが、髪の黒さは染め粉、髭はポマード、肌は紅、背筋は燕尾服の下のコルセットのおかげであった。
人々の前では元気にふるまいながらも、家に帰れば疲れ果てた様子でソファーに倒れこむような状態だったという。
老いは確実にヨハンの体を蝕んでいたのだ。
ヨハン自身も死がそう遠くないことを悟っていたようで、作品番号の付けられた最後の作品『ライムント時代の調べ』は、まるで生涯を回想するかのような作品となっている。
1899年の5月下旬、劇場で自作曲の指揮をしていたヨハンはひどい悪寒をおぼえ、数日後に無理を押してサイン会を開いた後、その晩から寝込んでしまった。
何人かの医師が診察した結果、当時は命取りの病とされた肺炎であった。
妻アデーレはヨハンに本当の病状を隠した上で「神経痛ですから、しばらく我慢してね。すぐに良くなるわよ」と嘘をついた。
ヨハンは書きかけのバレエがよほど気になっていたようで、作業を中断せざるをえない悔しさを幾度となく口にしたという。
肺炎に侵された体をむりやり起こし、作曲の筆をとろうともしていたそうである。
高熱に襲われ、幻覚症状におちいったヨハンには、周囲の人形がバレリーナに見えたらしい。
6月3日、前の晩から付きっきりで看病していた妻アデーレから「あなた、お疲れでしょう。少しお休みになったら……」と言われたヨハンは、微笑んで「そうだね。どっちみちそうなるだろう……」と答えて目をつぶった。
妻に答えたこの言葉がヨハンの最期の言葉となり、その日の午後4時15分、ヨハンはアデーレに看取られて死去した。
生前、グスタフ・マーラーからウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲(『灰かぶり姫』というシンデレラ物語)を委嘱されていたが、ヨハンの存命中には完成することはなく、未完のまま世を去ることになる。
マーラーがその未完の作品を上演することはなかった。
ヨハン死去の知らせを受けたウィーン市は、ただちにウィーン中央墓地の中に特別墓地を設けることを決定した。
葬式には10万人の市民が参列したとされ、この際ヨハンの「新曲」がいくつも追悼として演奏された。
未亡人となったヨハンの妻アデーレが、夫の未発表作品を世に送り出し、さらには遺された膨大なスケッチを集め、別の作曲家に依頼してそれらを巧みにつなげさせ、新作として発表したのである。
死後数年を経てからも、ヨハンの「新曲」は次々と世に出された。
その後ウィーンでは『我らがワルツ王の思い出』『シュトラウスの家』などの歌が流行した。
ヨハンの死から5年後の1904年、シュトラウス記念像を建立しようとする動きが高まった。
その名を知らぬ者はいないほどの有名人であったにも関わらず、その銅像は一つもなかったのである。
委員会が設置され、記念像建立のための募金が始められたが、その途上でサラエボ事件が起こり、活動も挫折を余儀なくされる。
追い討ちとばかりに第一次世界大戦に敗北して共和制に移行したオーストリアについて、「ヨハン・シュトラウスとともに、ハプスブルク帝国も死んだ」といった評価がされることもある。
1921年、ついに黄金に輝くシュトラウス記念像が建立されたが、贅沢すぎるとの批判を受けて黒色に塗り替えられた。
1991年にあらためて元の金色に塗り直されたヨハン・シュトラウス記念像は現在、ウィーンの代表的な観光名所のひとつとして親しまれている。
なお、ヨハン2世は女性関係でもかなりの浮き名を流しており、肉体関係を結んだ相手も数知れず。
好色がたたって性病にかかったこともあった。
生涯、三度結婚しており、その女性達は以下である。
括弧内の数字は婚姻期間。
○ヘンリエッテ (1862 - 1878)
元は銀行家のモーリッツ・フォン・トデスコ男爵の愛人。
既に二人の子持ちで、しかもヨハンよりも11歳も年上の女性だったが、献身的な性格であった。
ヨハンは社交界の花形であり、彼の周囲にはいつも美しい女性が集まっており、彼がどんな女性と結婚するかはウィーンの街角を賑わせた話題だった。
そのような状況で、ヨハンが選んだ相手にウィーンの人々は驚いた。
特にウィーンの女性は、このニュースを聞いて呆然としたという。
ヘンリエッテはかつて「イエッティ」という芸名でオペラ歌手として舞台に立ち、名歌手のジェニー・リンドに匹敵する人気があったといわれる。
ヨハンが彼女と初めて出会ったのは、トデスコ男爵家で催された舞踏会に指揮者として招かれた時のことである。
この時ヨハンは男爵と同棲していたヘンリエッテに一目惚れし、しばしば男爵家の彼女のもとへ通うようになった。
やがてヨハンとヘンリエッテが相思相愛の仲になったことを知ると、トデスコ男爵はふたりの結婚を快く認めたという。
1870年、母アンナと弟ヨーゼフが相次いで世を去って大変なショックを受けたヨハンは宮廷舞踏会楽長などのすべての公的な仕事から手を引く。
そんなヨハンに対し、ヘンリエッテはオペレッタの作曲を勧める。
当初ヨハンは「自分にはその才能がない」「歌詞のあるものに作曲するのは苦手だ」などといって断っていたが、ヘンリエッテの熱心な勧めに折れ、オペレッタを手掛けるようになった。
ヘンリエッテはヨハンの曲を歌ってみて、それに色々とアドバイスを与えて励ましたという。
ヨハンが「オペレッタ王」と呼ばれるきっかけになったのも、ヘンリエッテの献身と支えがあってのものだったのだ。
しかし、ヘンリエッテが60歳を超えて急激に老け始めると、妻に対するヨハンの愛情は冷めていき、浮気を重ねた。
ヘンリエッテが死んだ際、両親と弟の死を相次いで目の当たりにして死を病的なまでに怖がっていたヨハンは、葬儀の一切を末弟エドゥアルトに任せて、ウィーンから雲隠れしてしまったとされる。
○アンゲリカ (1878 - 1882)
二番目の妻となった女性。
ヘンリエッテの死から半月も経たないうちに、20歳の歌手であったアンゲリカ・ディットリヒが、ヨハンの知人の指揮者の紹介でヨハンのもとにやってきた。
ヨハンは27歳も年下のアンゲリカに一目惚れして夢中になって求婚し、ヘンリエッテの死のわずか2か月後に再婚した。
ヨハンの作品400『キス・ワルツ』には、「愛する妻アンゲリカへ」という献辞が添えられており、ヨハンの熱の上げようが窺える。
だが、肉体的にも精神的にも、この年の差夫婦が釣り合うはずがなかった。
華やかな音楽家の生活に憧れてヨハンと結婚したアンゲリカは、すぐにヨハンとの結婚に失望。
ヨハンのことを「老いぼれ!」と罵り、平然と浮気をするようになった。
アンゲリカは結婚5年目にアン・デア・ウィーン劇場の若い監督シュタイナーと恋に落ち、ヨハンを捨てて彼と共に駆け落ちした。
これによって面目を失ったヨハンは、オーストリア国外に逃れようとすら考えたという。
なお、彼女はその後すぐにシュタイナーと破局。ヨハンとよりを戻そうとしたものの、既に見放されていた。
アンゲリカは後年、ヨハンを裏切ったことをしきりに悔やんでいたと伝えられ、1926年にはヨハンの手紙をまとめて出版した。
あの「ちりり~ん♪」な楽団員とは、同名ではあるが無関係。
○アデーレ (1887 - 1899 )
三番目の妻でヨハンの最後の妻。
ヨハンの幼馴染で、ヨハンと同姓のシュトラウス家に嫁いだが、夫に先立たれ未亡人となっていた。
かつてヨハンがヘンリエッテと暮らしていた「鹿の館」で隣人同士でもあった。
ヨハンはアデーレが少女だった頃から好意を寄せており、フェルディナント橋での再会後、ときおり贈り物をしたりして彼女に近づくようになり、ついにはその心を射止める。
アデーレは、前妻アンゲリカよりも更に若い26歳だった。
しかし、アデーレとの結婚にはいくつか障壁があった。
駆け落ちした前妻アンゲリカは結局恋人に捨てられ、ヨハンとよりを戻そうとしていたため、正式な離婚に応じようとしなかった。
また、アデーレはプロテスタントでしかもユダヤ人であり、カトリックのヨハンが彼女とウィーンで結婚するのは面倒なことが多かった。
しかもヨハンには離婚の前歴があるため、カトリックの教理によって再婚は無効と見なされたのである。
そこでヨハンはオーストリア国籍を捨ててドイツ帝国内のザクセン=コーブルク=ゴータ公国に籍を移し、さらにプロテスタントに改宗した。
この国籍変更には、ヨハンの熱心な信奉者であった公爵エルンスト2世の尽力があった。
ヨハンとアデーレはただ国籍を移しただけで、その後もウィーンで暮らした。
公国内に家を構え、税金も納めたが、それらはあくまでも結婚のための方便だった。
アデーレは最初の妻ヘンリエッテのように献身的な女性であり、彼女との夫婦生活は幸福なものであった。
実はかつて隣人時代にヘンリエッテがどのようにヨハンを支えていたかを、アデーレは知っていたのである。
子供のいないヨハンは、アデーレの連れ子であるアリーチェを実の娘のように可愛がったという。
なお、アリーチェは1896年にヨハンと親交のあった画家フランツ・フォン・バイロスと結婚している。
ヨハンの死を看取った後、未亡人となったアデーレは女性関連の悪い噂を必死になって否定し、ヨハンの清潔さを喧伝した。
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スキル『皇帝円舞曲』について
ヨハン・シュトラウス2世が1889年に作曲した演奏会用のウィンナ・ワルツ(19世紀のウィーンで流行し、ウィーン会議を通してヨーロッパ中に広まっていった3拍子のワルツ)。
原題のまま『カイザー・ワルツ』と呼ばれることも多い。
晩年の作品の中では最も高い人気を誇っており、シュトラウス2世の「十大ワルツ」に数えられ、その中でも『美しく青きドナウ』と『ウィーンの森の物語』とともに「三大ワルツ」に数えられる。
尚、『美しく青きドナウ』は某ゲームの謎の食通のBGMよりも優先される曲として有名だったりする。
薔薇銜えた金髪ロン毛のナルシスト
完全に余談だが、ドカベンの殿間一人が用いた「秘打・皇帝円舞曲」もこれがモチーフ。
但し名前だけで、実態は左打席に立ち相手を攪乱し、右打席に戻って絶妙なセーフティーバントをするもの。
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