カミーユ・サン=サーンス
正式なフルネームはシャルル・カミーユ・サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saens, 1835年10月9日 - 1921年12月16日)。
フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト。
ユダヤ人を遠祖に持つともいわれる官吏の家庭に生まれる。
モーツァルトと並び称される神童タイプで、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている。
また、10歳でバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンたちの作品の演奏会を開き、16歳で最初の交響曲を書いている。
1848年に13歳でパリ音楽院に入学して作曲とオルガンを学び、やがて作曲家兼オルガニストとして活躍した。
特にオルガンの即興演奏に素晴らしい腕を見せ、1857年に当時のパリのオルガニストの最高峰といわれたマドレーヌ教会のオルガニストに就任。
1871年にはフランス音楽普及のために、フランク、フォーレらとともに国民音楽協会を設立した。
1881年にはアカデミー会員に推薦され、57歳の1892年にはケンブリッジ大学から音楽博士の称号を贈られた。
1913年78歳でサン=サーンスは、最高勲章であるグラン・クロワも贈呈されている。
そんな輝かしい功績に恵まれていたサン=サーンスは1921年、アルジェリア旅行中に86歳の生涯を閉じる。
サン=サーンスの葬儀は、その多大な功績に相応しく国葬で執り行われた。
音楽家として、作曲家、ピアニスト、オルガニストとして活躍したほか、少年のころからさまざまな分野に興味を持ち、その才能を発揮した。
一流のレベルとして知られるのは詩、天文学、数学、絵画などである。特に詩人としての活動は多岐にわたり、自作の詩による声楽作品も少なからず存在する。
だが、その博識ゆえの嫌味な性格がサン=サーンスの最大の難点であり、当時の人々の良く知るところでもあった。
特にアルフレッド・コルトーに向かって「へぇ、君程度でピアニストになれるの?」と悪びれもせずに見下したエピソードは有名であり、彼が超一流しか眼中になかったことを示すエピソードでもある。
実際にサン=サーンスが完璧と評した生徒の中に、ピアニストのレオポルド・ゴドフスキーがいる。
20代の一時期、ほんの数年だが教鞭をとっておりその時の弟子にフォーレが居た。彼とは師弟の関係を超えた深い親交をのちまで持ったという
42のとき、マドレーヌ教会のオルガニストの職を譲ったのは演奏旅行に支障をきたすからという理由であり、当時フランスの音楽家として安定した収入を得られる職であった教職もオルガニストも辞したのは彼の作曲家・演奏家としてやっていくというプライドと、またそれが実際に可能であった輝かしい音楽活動を裏付けるものである。
晩年、印象主義音楽の台頭の中でも近代音楽を批判し、すでに保守的とみなされるようになった作風による創作を第一次世界大戦後も死の直前まで続けた。
若き日のドビュッシーは、サン=サーンスの典型的な批判者であったが、「サン=サーンスほどの音楽通は世界広しといえどもいない」とも評している。
だが、当のサン=サーンスはドビュッシーの交響組曲『春』に対して、嬰ヘ長調であることを理由に管弦楽に適さないとして酷評している。しかし、『動物の謝肉祭』では和音の平行移動などの多くの印象主義の技法を駆使するなどしている。
映画『ギーズ公の暗殺』のために史上初めてオリジナルの映画音楽を作曲したことに象徴されるが、サン=サーンスは様々な音楽分野において先駆的な役割を果たしている。
サン=サーンスが古典音楽に固執し、また不人気であったかのように記されることがあるが、それは正しくない。
国民的な大音楽家とみなされていたことは、葬儀が国葬であったことからもわかる。
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スキル「Danse macabre(ダンス マカブル)」について
「Danse macabre」とはフランス語で『死の舞踏』を意味する言葉。
日本では「『死の舞踏』作品40」と呼ばれる、2台のピアノのための作品の一つ。
カミーユ・サン=サーンスの作曲した交響詩で、彼の作曲した4つの交響詩の中では最も有名な作品。
フランスの詩人アンリ・カザリス (Henri Cazalis) の奇怪で幻想的な詩に霊感を得て、1872年にまずは歌曲として作曲され、1874年に管弦楽曲としてまとめられたのが、この『死の舞踏』作品40である。
午前0時の時計の音とともに骸骨が現れて不気味に踊り始め、次第に激しさを増してゆくが、夜明けを告げる雄鶏の声が響きわたるや墓に逃げ帰り、辺りが再び静寂に包まれるまでを描写的に描いている。
――以上、wikipediaより――
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