ドイツの作曲家 ゲオルク・フィリップ・テレマン 1681年3月14日 ~ 1767年6月25日 (享年86歳)
後期バロック音楽を代表し、当時のヨーロッパでは随一の人気と名声を誇ったテレマン 彼は晩年は視力に問題を抱えながらそれでも衰えぬ創作意欲を発揮、長命であったことも手伝いクラシック音楽史上最も多くの曲を作曲したとしてギネスブックにも載っている
その数は3600以上、未発見のものも含めれば4000はあると言われ、既知のものも整理できていないものが多い
そのため彼の全作品の刊行は21世紀中には不可能だろうと言われる
テレマンはドイツ東部の中流家庭に生まれ、プロテスタントの洗礼を受けた父はプロテスタントの伝道師 母も牧師の家系であった 父はテレマン4歳の時に亡くなり母親が主に彼を育てた テレマンの家からは何名かの音楽家が輩出されている
小学校からリコーダーやツィターなどの楽器に親しみ、ギムナジウムに入ってからは高いレベルのドイツの詩や文学受ける ラテン語やギリシャ語の成績で優秀だったが音楽に関しても高い順応性を見せたため、歌唱指導を任された。
またこのころからカントル(教会音楽指導者)の作曲する楽譜を覗き見ては好奇心と興奮を抱いていた その後独学で楽譜の書き方を修め12歳でオペラを書いた
母はテレマンが音楽の道に進むことを望まず音楽から引き離そうと各地に彼を飛ばしたが
病気の教師に代わって指揮や作曲を行うなど、そのいずれの地でも本人は音楽で成功した
20歳になった彼は母の意向に従い大学に進学 ライプツィヒに向かうが、道中ですでに有名になっていた音楽家ヘンデルと出会い親交を持ち、大学では法学を学びながらも 市民と学生からなる楽団コレギウム・ムジクムを統率した
以降、彼は(23歳)プロムニッツ公に招かれ宮廷学長になりジャン・バティスト・リュリやアンドレ・カンプラの楽譜を研究し 公の好んだフランス風の作風をマスター
(27歳)アイゼナハの宮廷から招かれて宮廷礼拝堂楽団を組織、ここでJ・Sバッハと出会う
(31歳)に自由都市フランクフルト・アム・マイン市の音楽監督、2つの教会の 「教会楽長」 に続けて就任しアイゼナハにも“不在楽長”の任命を引き続き受け作品を書き送った
これまでの経歴も輝かしく彼は音楽家として大いに成功していた
しかし彼の音楽家としての最大の転機は、ハンブルク市の音楽監督・兼・ヨハネウム学院のカントル(キリスト教音楽の指導者)が亡くなったことでその後任としてハンブルクに移り住んだことにある 1721年(40歳)でのことだった
以後、再建されたハンブルク市歌劇場の音楽監督を務め、歌劇の作曲も引き受けた彼はハンブルク市の音楽全体を指導する監督の位置となっていき、亡くなるまでその位置で活躍し続けた。
ここでオペラ、コンサート、教会音楽の演奏や出版を次々と行う
1726年(45歳)には遠く離れた中部ドイツのバイロイト宮廷からも楽長に任命され、多くの作品を提供した
同時代の作曲家として、前述の大学時代からの友人であったヘンデルや J.S バッハと親交が深く バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの名付け親となり、バッハが1750年に亡くなった際には彼の功績に対して最大限の賛辞を追悼の言葉としておくり、偲んだ
彼の作品は難解で複雑と言われたバッハよりも親しみやすく、演奏しやすいことから裕福な市民層・貴族の間で流行し、また彼自身も音楽の予約販売や隔週での雑誌販売を行って新譜を乗せ、定期購読を促すなどの新たな商法を開拓し、支持層に常に流行の先端の音楽を提供したため その商売上手さとともに彼は音楽界で大いに成功した
そのため彼の作風は多様で簡単には言い表せないが、彼自身はヨーロッパ各地の舞曲を研究し作品に取り入れた。バロック音楽の大きな特色である対位法の使用は減少し 古典音楽とバロックの中位に位置すると言われる
しかし流行の先端と当時のヨーロッパ社会への迎合を追いもとめたマイナスの面として、死後は作品の評価を急速に落とし、彼自身の知名度もバッハと入れ替わるように下がっていった
なお、彼の私生活において 結婚は失敗続きだった 最初の妻との間に娘一子を設けるもわずか15か月で死別し、のちに30代にマリア・カテリーナと再婚、9子を設けるが彼女は外に男を作っていたと言われ、その上にギャンブルに熱中してテレマンの年収を8倍をも超える負債を抱えた
ハンブルクの商人たちの助けで破産は免れたが のちにマリアは家を出てしまった
ちなみに彼の子供らは誰も音楽家にはならず、その死後に彼が引き取った、早逝の長男アンドレアスの子ゲオルク・ミヒャエル・テレマンだけが音楽家として活躍した
テレマンの死後、ハンブルク市の音楽監督の立場は前述のカール・フィリップ・バッハが
さらにその没後はミヒャエル・テレマンが引き継いだ
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