モデルとなったヤコポ・ペーリは1561年8月20日にイタリアはローマに生まれた音楽家で、世界で初めてオペラを作曲した。
赤みがかったブロンドの髪から「シャッセリーノ(Zazzerino)」(毛深いとかダンディーとかの意味)という愛称で呼ばれた。
作曲家クリストファーノ・マルヴェッツィに師事しフィレンツェに移り住み、当初はテナー歌手やオルガニストとして数々の教会で働いた。その後作曲家に転身しメディチ家の宮廷に務める。
初期の作品は幕間劇やマドリガーレ(マドリガル)が主だったようだ。
バルディ伯爵やコルシ伯爵が開いていた音楽サロン「カメラータ」に1590年代に参加し、そこで演奏家でもあるヤコポ・コルシ伯爵と意気投合し、他のメンバー共々古代ギリシャ音楽の復元に傾倒した。復元とは言っても古代のすでに失われた音楽で資料も少なく、大半を想像で補うしか無かった。その研究の途上、オペラの元となった「モノディ」という様式が生まれた(モノディの発明自体は同じくカメラータのメンバーであった作曲家ジュリオ・カッチーニとされている)。
そして記録上最古のオペラである「ダフネ」は1597年にギリシャ神話を題材に詩人オッターヴィオ・リヌッチーニが台本を書き、ペーリがモノディを使って作曲したが、一部それらしいとされる譜面を除いて現存していない。
2作目のオペラであり、現存する最古のオペラ「エウリディーチェ」(後述)は1600年に作曲された。台本は同じくリヌッチーニである。
上演は成功し、他の作曲家も続々とオペラ作曲を行うようになり、その後30~40年の間にオペラ劇場がいくつも建てられ、イタリアオペラの時代が訪れることになる。
ペーリはその後も他の作曲家(マルコ・ダ・ガリアーノ等)とのコラボレーションでオペラを書いた。オペラ以外にも宮廷の為に数々の曲を作った。
晩年頃にはペーリのオペラは他のクラウディオ・モンテヴェルディ(C・モンテヴェルディのモデル)等の若い作曲家の作品と比べ古臭いものとして廃れかけていたが、後世の作曲家に与えた影響は決して少なくない。
1633年8月12日フィレンツェで亡くなった。
主な作品に
- La Pellegrina (1589)
- オペラ「ダフネ」 La Dafne (1597)
- オペラ「エウリディーチェ」 Euridice (1600)
- Tetide (1608)
- Adone (1611)
- La liberazione de Tirreno e d'Arnea
- La Sposalizio di Medoro e Angelica
- オペラ「フローラ」 La Flora(マルコ・ダ・ガリアーノとの共同作品) (1628)
等があるが、現在では残念ながらエウリディーチェ以外はほとんど知られておらず、また演奏される事も殆ど無いようだ。
ゲーム内のペーリは古き都マニアで、この古き都とはギリシャの事(自己紹介の"クロッコ地方の南東にある古き都"等からも分かる)で、特に古代ギリシャ文化を好んでいる。
○オペラ「エウリディーチェ」
スキル名にもなっているエウリディーチェは、ギリシャ神話のエウリュディケーを題材にしたオペラで、モノディ様式を駆使して作曲された。
同じ話を題材にしたオペラは他の作曲家達によっても作られている(クラウディオ・モンテヴェルディの「オルフェオ」等)。
1600年10月6日、フランス王アンリ4世とマリーア・デ・メディチの婚礼の催し物の一つとして、フィレンツェのピッティ宮殿においてエミリオ・デ・カヴァリエーリ(E・カヴァリエーリのモデル)の指揮で初演された。
この事からもゲーム内ではペーリとカヴァリエーリはライバル同士という設定だが史実では仲は悪いわけでは無かったようだ。
一方、初演の際作曲家ジュリオ・カッチーニは自らの影響下にある歌手が出演する場面でペーリの楽曲を歌わせようとせず、自らの楽曲に差し替えるという妨害を行なった。
1601年、ペーリとカッチーニは、改めてそれぞれの手による「エウリディーチェ」を発表したが、その際にもカッチーニはペーリに先んじて曲を出版したり、ペーリ側の歌手にペーリに協力するなと言ったりという妨害を行っている。
余談だが、カッチーニはカヴァリエーリにも妨害工作を行っており、相当我の強い人物だったようだ。
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