ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(1792-1868)。 作曲家であり美食家。
代表曲はスキル名でもある「ウィリアム・テル序曲」。 作品傾向はオペラが中心だが室内楽・宗教曲も手掛けている。
肖像画を始め小太りに描画される事が多い。
作曲家としてのロッシーニ
オペラ作家として非常に高い人気を持っていたロッシーニ。 その数は39とオペラでは多め。
しかし生涯76年に対してオペラ作家活動期間は20年もない。 つまりかなりのハイスピードで作曲している人。
当時の作曲家(ショパン等)や大衆から高い評価と人気を持っており
ベートーヴェンが「セビリアの理髪師」を絶賛し「貴方はオペラ以外のものを書いてはいけません」と言われた程の腕前。
(ただ当時のベートーヴェンは人気がなく、裏で愚痴っていたとも)
彼が作ったオペラは基本ハッピーエンド物が多く、イタリアのオペラ作家では異例な存在。
(イタリアのオペラ作家は基本「悲劇」を好む と言われている)
18でオペラを作り始め20で初ヒット(試金石)、その後も37まで破竹の勢いでオペラ作品を作り上げていった。
ただ曲の中身は「創作概念なんて知ったこったない」な程の問題だらけ。
同じ旋律を使い回すのは朝飯前。 (ウィリアム・テル)
序曲を使いまわす。 (セビリアの理髪師→パルミーラのアウレリアーノ→イングランドの女王エリザベッタ)
他の人のメロディを使う。 (ベートーヴェンの第8交響曲を使っている曲がある)
細部変えただけで別の曲にした。 (ランスへの旅→オリー伯爵)
現在で考えれば大問題だらけな作りであった。
またクレッシェンド(徐々に大きくする演出)が浮き出るような特徴があり
同じ旋律を繰り返しながら徐々に演奏規模を大きくし、最後に頂点を目指すような作りになっている。
この表現はロッシーニ独特のものであり「ロッシーニ・クレッシェンド」と呼ばれる。
使用している旋律は非常に評価が高く 盛大に活用した か 使いまわした かは個人差の域であり
当時でもここで評価が分かれていた様子。
オペラ「セビリアの理髪師」
ロッシーニの代表オペラと言うと「セビリアの理髪師」を上げる人が多い。
「フィガロ三部作」の第1部に相応するオペラであり、この後に「フィガロの結婚」が存在する。
ロッシーニ・クレッシェンドが活かされた作品でもあり、中身が分かりやすいハッピーエンドな事から
オペラの入門用としても名が上がる …のだが、問題は「フィガロの結婚の方が初心者向けに人気」という事実。
しかもそのオペラ「フィガロの結婚」を作ったのが モーツァルト(ヴァネサ・モーツァルト) であった。 これは勝てない
ロッシーニ最後の集大成「ウィリアム・テル」
「ウィリアム・テル(正式名 ギヨーム・テル)」はロッシーニが最後に出した「オペラ作品」である。
上記曲構成をフルに活用した作品とも言われており、ロッシーニの代名詞と言えばこれであろう。
今でも運動会を始め、テレビ・ドラマ・映画だけでなく
ゲーム(主にSTGで出したあの会社のせい)でも使われる程人気のある楽曲だが
ご存知のあの部分は「序曲(大まかなあらすじを紹介する)」の「第4幕」に相応する。
どういう場面かというと
「息子ジェミの頭のリンゴをテルが射抜いた…のだが
それを命じたジェスレルが「もし失敗したらテルはジェスレルを射抜いていた」と告げ (ここまで第3幕)
逮捕しようとした直後にスイスの反乱軍が出て来る所」 (ここから第4幕)
要は「兵隊の突撃シーン」である。 そこは今の用途とあんま変わってない。
なおこの部分だけを示す場合は「スイス軍隊の行進」なんて呼ばれる。 行進にしてはテンポが…
才能はある怠け者ロッシーニ
自他共に「才能はあるが怠け者」と呼ばれている。
全力を出せばオペラを3週間で作ったり(セビリアの理髪師)、1年の間に3~4つ程作る異常なスピードを出す。
そして序曲を作り忘れるのに気づいて使いまわしていた。
怠け具合はというと…
ウィリアム・テルを出してオペラ作家を引退したロッシーニはその後
「昔はメロディから私の方に来てくれたが最近は来なくなった。
自分は怠け者なので探しに行くのが面倒だからオペラ作家を辞めた。」
と答えたというほど。
作曲面以外も中々ひどく
「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得たロッシーニが引退後を「年金生活」なんて呼ばれ
新政府と相談し前国王政府からあった給付された年金を確保していたりと引退後の生活もなかなかな手腕を発揮した怠け者だった。
美食家としてのロッシーニ
オペラ作家を37で引退、音楽界を引退したのが44歳。 その後は美食家としての道を歩む。
若い頃から料理を食べる・作るのが好きだったロッシーニは引退後料理の創作や高級料理店の経営をしていたという。
(フランス料理にある「~のロッシーニ(風)」も彼の影響。 フォアグラとトリュフを使った肉や卵料理の事)
なおオペラ作家引退後も作曲はしていたようだが…
料理名が曲名のピアノ曲を作ったり、ワーグナーの話中に鹿の肉焼いてたり と既に美食家としての一面が強かったという。
一発屋ロッシーニ
死後、彼の名前は一気に忘れ去られることになる。 (セビリアの理髪師だけ注目される「一発屋」のような扱いだった)
しかし1960年台ぐらいからロッシーニ財団が全集を出し再びロッシーニのオペラが評価されるようになり
再びロッシーニのオペラが公演されていくようになり、数が多いだけになかなかの勢いが付いて人気と取り戻した。
この現象を後に「ロッシーニ・ルネッサンス」と呼ばれるようになる。
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