メンデルスゾーンさんの元ネタのモデルとなってるのは、 本名:ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ である。
父方 アブラハム・メンデルスゾーン 母方 レア・ザロモン
4人兄弟の2番目として、生まれる。
(姉 ファニー、フェリックス(本人)、妹 レベッカ、弟 パウル)
メンデルスゾーンの「結婚行進曲」(主にチャペル挙式の新郎新婦退場などで、よく使われる。この楽曲が完成した時、わずか17歳であった。)や 交響曲「イタリア」を作曲したドイツロマン派を代表する作曲家。
6歳の時、母からピアノの手ほどきを受け始める 7歳には パリでピアノ教師マリー・ビゴー(ハイドンからも認められており、サリエリとも親交が在った。)に付き、学んだ。 1811年に一家は母方のおじの銀行がナポレオンの大陸封鎖令を破ろうとしたことに対する報復を恐れて ハンブルクを離れベルリンへと移っている。
メンデルスゾーン一家がベルリンへと移ってからは、皆、ムツィオ・クレメンティ門下のルートヴィヒ・ベルガーからピアノの指導を受けている。
12歳から14歳までに作曲された作品名 【弦楽のための交響曲、もしくは弦楽のためのシンフォニア】(原題:"Sinfonia")
15歳で作曲された作品名【交響曲第1番 ハ短調 作品11 MWV.N 13】 (第1番になっているのは 出版社の都合である。)
実際の話として、メンデルスゾーンは、一度見た楽譜、一度聴いた音楽を完璧に記憶する能力を有していたと言う。
過去に代表作を書いた譜面を引越す際に紛失してしまうも、記憶だけを頼りに全てまた書き出して見せた と言う伝説がある。
後に初稿の楽譜が発見されるが、書き直した楽譜と元の楽譜は7箇所が異なるだけで、後は、完璧に同じだったという。
(しかもその7箇所すら間違えたのではなく「直した」という話だとか)
しかしメンデルスゾーンの一番の功績はヨー・バッハ(Johann.Sebastian.バッハ)の復権に尽きよう。
19世紀初頭のバッハの扱いと言えば、時代遅れも甚だしい100年前の数物のオルガン弾き、そういえば何か知らんけど作曲の真似事もしてたっけ…
そんなぞんざいな扱いだったこの無名な作曲家(というより演奏家が趣味で作った扱い)の「マタイ受難曲」という曲を
"1世紀ぶりの復演"と称して自ら指揮棒を執り蘇演を果たしたことがきっかけでヨー・バッハの音楽を見直す機運が高まり、
果てには「音楽の父」「大バッハ」とまで呼ばるようになり、今でもみんなが大バッハの素晴らしい音楽を聴ける…
これだってメンデルスゾーンがいなかったら今の人たち誰もヨー・バッハのヨの字もバの字も知らないよ?っていう話で。
しかもこの「音楽の歴史を変えた大偉業」を御年20歳で成し遂げたというから怖れ入るしかない。
ちなみに大バッハの代表作は"トッカータとフーガ ニ短調"、曲名で分からなくても嘉門達夫の「鼻から牛乳」の基になった曲といえば…
(ヴィエンナ音楽院の中ではヨー・バッハはメンデルスゾーンに頭が上がらないんだろうなぁ、、。、)
他にも
- 子供の頃にベートーヴェンの交響曲を9曲全部ピアノで(譜面なしで!全部暗譜で!)弾いて退けた
- 多数の言語を自在に操り、ドイツ語、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語までも話していた(青年期)。
- 詩作や絵画(鉛筆画や水彩画)にも興味と関心を持ち(特に水彩画に関しては多くの作品を残している。)その実力は、プロの画家顔負けだった。
- 膨大な書簡の中には、手紙の中で文字と共に面白おかしいスケッチや漫画が添えられていた という。
だが、「不機嫌なポーランド伯爵」と言うあだ名を付けられた事もあり、本人自身も残されている書簡の中でこのあだ名に付いても触れている。
裕福なユダヤ人銀行家の息子であり、父の代からキリスト教に改宗していたが、当時はユダヤ人というだけでいわれない差別を受けており、 特にワーグナーには彼の著作である『音楽におけるユダヤ性』において名指しで糾弾されてしまった。
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