ヴァイオリン(ヴァイオリン属)
言わずと知れた楽器の女王。楽器の王様と呼ばれるのはピアノ。
G・D・A・Eからなる4本の弦を弓で擦ることで音を奏でる擦弦楽器のひとつ。略称はVn。
オーケストラでは第一、第二ヴァイオリンとして中核をなす他、ヴァイオリン2挺とヴィオラ、チェロによる弦楽四重奏の形式も有名。*1
演奏形態としては他にピアノやオーケストラを伴奏としたソロや協奏曲がある。
○フィドルとは違う?
フィドルとは擦弦楽器一般を指し、特に民族音楽において用いられるヴァイオリンを指すことが多い。またヴァイオリンの俗語として使われることもある。
しかしフィドル=ヴァイオリンというわけではなく、中世に用いられたヴァイオリンやヴィオールの祖先にあたるとされる弦楽器などを指すこともあるため注意が必要。
○モダン・ヴァイオリンとバロック・ヴァイオリン
時代によって細かく形を変えてきたヴァイオリンだが、一般的にはモダンとバロックで二分される。
モダンヴァイオリンは私たちが目にするヴァイオリンのこと。
バロックヴァイオリンはバロック時代に特有の形状をしており、最も分かりやすい差異は顎当がないこと。
バロック時代には顎当は発明されておらず、古典派、ロマン派時代からつけられるようになった。
顎当は楽器を安定させることでより難解かつ速度のある曲を弾くことができるようにする効果があるが、一方で姿勢が制限され自由度が減るので元来の柔らかな音や表現が失われてしまうという指摘がある。
他にも弓の形状がモダンの中央がくぼんだ曲線に対して直線や中央が少し膨らんでいるという違いも見られる。
これは弓の張力が弱いせいであり、モダンになると音楽の大衆化に伴ってより強く張りのある音が求められ、変化した。
また多くのモダンヴァイオリンの弦は金属やナイロン製だが、バロックにはガット*2弦が用いられている。
○ヴァイオリンの歴史
ヴァイオリンは他の楽器と比べて文献が少なく、そのルーツには今のところ定説はない。16世紀半ばに突然現れ、現代まで同じ形を保っているという。
一般的には北イタリア発祥と言われているが、擦弦楽器のルーツはアイルランド系のケルト人、ドイツ系ゲルマン人となっており、より広義の弦楽器では文明発祥の地メソポタミアに、人類の歴史とともに出現しているという。
それら世界中で生まれた弦楽器の原点から、次第に形を変え、シルクロード、海上を経て、最終的に芸術の国イタリアへ到着したと考えられている。
9世紀ごろには、リュートやヴィオールとなってヨーロッパに出現し、これらがまた変化して、約400年後の16世紀ごろにヴァイオリンの原型が出来上がる。
それが「ヴィオラ・ダ・ブラッチョ」と「ヴィオラ・ダ・ガンバ」であり、前者はヴァイオリン属、後者はヴィオール属へと発達していく。
そして16世紀半ばになると、アンドレア・アマティ(1505?-1577?)が突如、ヴァイオリンをほぼ現代の完成形として世に残した。経緯は不明。
それまではヴィオールの全盛と言われ、贅を尽くした装飾楽器が主流だったが、アマティがガスパロ・ディ・ベルトロティ(1542-1609)とともに完成形ヴァイオリンを世に送り始めると、メーカーも追随し、装飾よりも楽器としての機能を追求するようになった。
アマティとベルトロティはその後それぞれ楽器製作の流派、クレモナ派とブレジア派の創始者となった。
16世紀はルネサンスのただ中であり、新しいもの、甘美で繊細な、かつ力強い音が求められたが、ヴァイオリンはその要求に応え「楽器の女王様」と呼ばれるようになる。
16世紀の後半になるとバロック時代に突入し、また違った音が求められていった。そのため製作者もそれに応じて美学的、音響学的、機能的、構造的にあらゆる探求がなされていき、その結果、時代を超えて「銘器」と呼ばれ、賞賛されるヴァイオリンの完成をみることとなった。
17世紀に入るとバッハやヘンデルなどの時代となり、多数の名人が輩出され、黄金期を迎える。宮廷音楽や宗教音楽により強い音、より甘美な音色が求められるようになり、製作者もそれに呼応した。アマティやストラディヴァリウス、ガルネリウス一族がクレモナで活動したほか、各地域でもたくさんの製作者およびその弟子が生まれていった。
17世紀後半には資本主義が台頭し始め、劇場など、一般市民にも音楽が開放されるようになると、大勢の聴衆に音が届くように、音量が求められていくようになった。これに応えたのがニコロ・アマティ(1596-1684)であり、彼は強力なギルド制度により、広い地域から製作者を求めるとともに、それまで小型だったヴァイオリンを現代の大きさにし、それを基準として統一し、基本構造を完成させた。
それから18世紀に古典派、ロマン派と時代を重ねていくと作曲家もさらに強く、粘りのある音を求めるようになったとともに、奏法も変化していった。難解かつ速度を求める曲も増えたため、楽器を安定させ、指板上の弦の張力を増し、よりハイピッチで演奏できるように求められた。
ここで初めて製作者によってヴァイオリンの構造に大きな手が加えられた。顎当てが取り付けられるなど、先述したバロックヴァイオリンからモダンヴァイオリンへと形を変えたのだ。
この変化はヴァイオリンに強く張りのある音を出させることに成功し、ハイポジションが作り出す高音により音域も広がったが、その一方でそれまでヴァイオリンが持っていた音色、音質は低下してしまった。
また、このころにヴァイオリンの弓も注目されるようになり、研究が進められていった。18世紀後半にはフランスのミルクールでこれまでよりも強く、しなやかな新構造の弓が現れ、現代弓の基礎が出来上がる。
そしてのちに弓製作のストラディヴァリウスといわれるトゥールテ(1747-1824)の活躍により、弓にもヴァイオリン本体と同じように個性が出るようになり、トゥールテをベースに様々な製作者が様々な弓を作り出すようになった。
18世紀後半から19世紀前半になると、ヨーロッパ各国で産業革命がおこり、徹底的な合理化が進められた。ヴァイオリンも工場での生産が始まるが、イタリアとフランスの一部では従来の師弟制度に則った工房製作のみが行われた。
19世紀の初めになると、政治、経済、芸術の中心がフランスからイギリスへと移っていった。それに伴い、銘器と呼ばれるヴァイオリンも、王侯貴族や上流階級の人々の手によって移動を始めた。これを銘器たちの第一移動期という。
また、このころからコピイストと呼ばれる製作者が登場し、何人か腕のいいものもあらわれたが、結局は名人の模倣となるため、あまり普及しなかったため、本当に実力ある製作者は銘器は銘器として参考にしつつ、自身のオリジナルを製作した。
19世紀の後半になると、ヴァイオリンの大衆化がさらに進み、いくつかの地域でヴァイオリンの大工場が建てられた。月産500から1000本になる生産数により、それまでにない安さで大量に市場に供給され、ヨーロッパ各地にも輸出された。また、これまでオーダーメイドだった子供サイズのヴァイオリン(分数楽器)も製作されるようになり、19世紀終盤にはドイツ、フランスを中心に分数楽器の規格化がなされた。
このように広く大衆へと浸透した大量生産品だが、演奏家には受け入れられず、相変わらず手作りのヴァイオリンが重宝された。
大量の工場産ヴァイオリンが世に出る一方、製作者もそれに対抗し始めた。イタリアのクレモナにヴァイオリン製作学校が設立され、フランスでも伝統を守った弓の製作工場が設立されたほか、ドイツやチェコスロバキアなどにも製作学校が設立され、教育を受けた製作者が大勢育っていった。
19世紀後半から20世紀前半にかけては、経済の中心がアメリカへ移り、それにともない再び資産家たちの手によって銘器の移動がなされた。これを銘器たちの第二移動期という。その後、アメリカの経済発展は進み、大量生産も輸入されるようになると、アメリカの一般大衆にもヴァイオリンが普及した。
その後世界は戦争で不安定な情勢が続いたが、世界大戦に限らず、フランス革命からナポレオンの時代、ムッソリーニの恐怖政治、ヒトラーの独裁政治においても、ヴァイオリン製作は絶えることなく続いた。
アジア地域において、日本では20世紀ごろから製作されるようになり、そのころから海外で学ぶ日本人も増えた。中国でも製作がなされたが、質が低かった。
しかしその価格の低さから大量に海外へ輸出され、イタリアなどに留学した職人が本国へ帰ってくると、質も向上した。
現在は価格の面で中国のヴァイオリン、そしてブラジルの弓が普及し始めている。
○三大ヴァイオリン
ニコロ・アマティ、グァルネリ・デル・ジェス、ストラディヴァリウスの三種類のヴァイオリンを総称して三大ヴァイオリンと呼び、名器中の名器として世界中の羨望の的となっている。
ニコロ・アマティ
アンドレア・アマティの孫ニコロ・アマティ(1596-1684)の作。彼は従弟制度を最初に確立し多くの弟子を育てて、クレモナの地をヴァイオリンの一大生産地にした。
アントニオ・ストラディヴァリもその一人。ピアノの前身であるフォルテ・ピアノを開発したバルトオロメオ・クリストフォリも彼の弟子である。
その音色は甘美で透明感のある音と言われている。
三大ヴァイオリンの中で最も古く、入手も困難。
ストラディヴァリウス
アントニオ・ストラディヴァリ(1644-1737)の作。ニコロ・アマティの弟子であり、おそらく三大ヴァイオリンで最も有名であろう。
ダイヤモンドのような輝きのある音と評され、ヴァイオリン製作におけるお手本のような存在であり、現在作られているヴァイオリンの多くはストラディヴァリウスモデルである。
2002年9月にヴァイオリンニストの千住真理子氏が1716年製のストラディヴァリウス「デュランティ」を購入したことが話題になった。
2006年5月16日に354万4000ドル(約4億円)というヴァイオリン価格の世界記録を更新したように、時折オークションに出され超高額で落札されている。
グァルネリ・デル・ジェス
ストラディヴァリとライバル的存在であったアンドレア・グァルネリの孫、バルトロメオ・ジュゼッペ・アントニオ・グァルネリ(1698-1744)の作。
力強い音が特徴で、パガニーニの所有していた「カノン」(1743年)が有名。現在はジェノバの博物館に展示されている。
○音精マティアについて
マティア→アマティが名前の由来と思われる。
アマティは先に述べたようにヴァイオリン製作者の一族であり、最も有名なのはニコロ・アマティであるが、ここではヴァイオリンの生みの親ともいえるアンドレア・アマティから取っていると考えられる。
同じ音精であるヴュータやドルフィンと違い「アマティ」ではなく「ヴァイオリン」と名乗っているほか、アマティに関する言及が本人からなされないため、特定の名器ではなくアンドレア・アマティが創始した「ヴァイオリン」一般の音精と考えるのが妥当であろう。
未熟者でストラディヴァリウスに憧れるというのは、アンドレア・アマティの時代にはヴァイオリンが彼によって生み出されたばかりの状態であり、後にヴァイオリンの究極形としてストラディヴァリウスが君臨していることから来ていると思われる。
立ち絵は元々右向きで描かれている物を左向きに反転して使用しているらしく、楽器の構えなどが逆向きになってしまっている。
↑マティアのバイオリン(向き修正済み)
スキルの「クロイツェル・ソナタ」はベートーヴェン作曲の『ヴァイオリンソナタ第9番「クロイツェル」』から。
クロイツェルというのはフランスのヴァイオリニスト、ルドルフ・クロイツェル(1766-1831)のことである。特に指導面での功績が多く、クロイツェルの教本にお世話になったヴァイオリニストも少なくないのではないだろうか。
またパリ音楽院に創立期から関わり、31年間に渡って教授を務めた人物。
ベートーヴェンが彼にこの曲を献呈したため「クロイツェル・ソナタ」と呼ばれているが、元々はイギリスのヴァイオリニスト、ジョージ・ブリッジタワー(1778-1860)に献呈され、ベートーヴェン自身のピアノで1803年に初演が行われたが、ベートーヴェンがブリッジタワーと仲違いしたことから、改めてクロイツェルに献呈された。
ちなみにクロイツェルが献呈について知っていたという証拠は見つかっておらず、この曲を演奏することもなかったとのこと。
3楽章からなるこの曲は『ヴァイオリンソナタ5番「春」』と共にベートーヴェンの、ひいてはヴァイオリンの名曲として親しまれている。
ベートーヴェン自身がつけたタイトルは『ほぼ協奏曲のように、相競って演奏されるヴァイオリン助奏つきのピアノ・ソナタ』。
当時のヴァイオリンソナタはむしろピアノが主となっていたのに対し、この曲はヴァイオリンとピアノが対等に扱われていることが特徴的。
またロシアの文豪トルストイの作品である『クロイツェル・ソナタ』という小説はこの曲に因んでいる。
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