作曲家ジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste Lully)が元ネタ。
―ジャン=バティスト・リュリ-
1632年生まれのフランスの作曲家。が、イタリアのフィレンツェ生まれ。
1632年というと日本では江戸幕府が開かれ、平穏な時代であったが、ヨーロッパでは大陸の主要国が三十年戦争で争っており、イギリスではピューリタン革命が起こりつつあり、はたまた東方ではオスマン=トルコの脅威が...と中々に大変な時期だったのである。
そんな中で生まれたリュリが何時から音楽を学び始めたかは解っていない。だが本人が言うにはフランスの修道士にギターを教わり、またヴァイオリンも勉強したようである。
そして、ある時ギーズ公子ロジェに連れられフランスへ行き、そこでフランス王族アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンの下で小間使いとして働き始める。リュリの音楽的才能はアンヌの下の音楽家達と共に磨かれ、le grand baladin(偉大な道化師)と渾名されるまでとなった。
ところが彼の生活にも変化が訪れる。主人のアンヌがフロンドの乱(貴族が国王ルイ14世に反乱を起こした事件)で敗れ、所領を追われるとリュリは暇乞いをした。
―ルイ14世とリュリ―
ゲーム内で彼女が言う「お偉いさん」とは彼、フランス王ルイである。
二人の出会うのは1653年2月23日の「夜の舞踏会」に於いて。この時ルイは15歳、リュリは21歳。そこでリュリはルイと踊り、そのとき彼に見初められ、翌年には国王付きの作曲家となった。
その後もルイの寵愛の下で作曲を続けていき、1661年には宮廷音楽監督に任じられたのだが、ある時リュリが王の小姓に手を出したことをきっかけに王の寵愛を失い、王もリュリのオペラに足を運ぶことが無くなってしまった。あくまでも史実でのリュリは勿論男。つまりアッー!である。
※実際は、音楽での数々の成功があったこともあり、強引な手法で敵を多く作っていた所為もあって 【性別問わず口説き落としていたと言う】・・・噂をたてられてしまう。 当時、外交上の理由*1などで宗教道徳(ブルボン家はカトリックなので男色は勿論NG)を重視していたルイとしては流石に目を瞑るわけにいかなくなったと言う経緯がある。
―失意の内の死―
王の寵愛を失ったリュリであったが、その後もルイの為に作曲を続けた。
その後、王の病の恢復を祝い、テ・デウムを作曲、演奏会にて指揮をしたが(国王は来ず)当時の習慣に従って、長くて重い杖を使っていたが、誤って足に強打してしまい、傷口に大きな腫瘍が出来てしまう。やがて、腫瘍から酷い壊疽を起こし、1687年3月22日に急死した。
(補足)はてな、と思われた指揮者も多かろう。指揮棒を足に落とした程度で怪我をするものか、と。
当時の指揮棒は、現代使われているような軽いものでは無く重い杖のようなものであったので、このような事態となったのである。
―音楽家として―
代表的なフランス・バロックの作曲家の一人である。フランス・バロックについての細かい話はいずれできるであろう音楽史の時代に関するようなページに譲るが、同じバロックの作曲家とされるブクステフーデ、バッハに代表されるドイツのバロックやスカルラッティやヴィヴァルディの音楽とは大きく違い、バロックと音楽的特徴をもって一括りにはし難いのがフランス・バロックであり、そのフランス音楽をある程度まで形作ったのがこのリュリとみることもできる。
またバレ、オペラも彼が大きく発展させた。そしてティンパニを初めてオーケストラで用いたのはこのリュリである。ティンパニの音精、リンガーの絡みはあるのだろうか・・・
―音楽魔法「王達の寵愛と罰」―
おそらくリュリの生き様そのものが元ネタと思われる。
またスキル発動ボイスの「いざ死すべし、汝罪人よ!」は、リュリが臨終の床で書き残したとされる言葉「いざ死すべし、汝罪人よ(Bisogna morire, peccatore)」がそのまま元ネタであろう。
―特殊攻撃「バレ・ロワイヤル」―
フランス語で王のバレ。フランスではリュリ以前、16世紀にカトリーヌ・ド・メディシスがフランスに嫁ぎバレエがフランスにもたらされより、宮廷を舞台としてフランス王のもとでバレエが発達を遂げてきたが1670年にルイ14世が舞台を降り、オペラ座がその翌年に設立されてからはバレエは劇場のものとなり宮廷のものではなくなってしまった。リュリが没したのは1687年であるが、フランス王のもとで栄えた宮廷バレエと、王のもとでバレエをフランス風に完成させたジャン・バティスト・リュリというのは同時代に興亡を経たのである。
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