天才ヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニ(1782-1840)が元ネタ。
10月27日、イタリアのジェノヴァにて生まれる。
母親が語るところによれば、パガニーニが生まれる前に天使が訪ねて、どんな願いでも叶えてくれるというので、息子が世界最高のヴァイオリニストになれるよう願ったという。
父親からヴァイオリンの手ほどきを受け、目覚ましい進歩を見せる。
息子の才能に気付いた父親は一日12時間も部屋に閉じ込めて練習させたというスパルタぶり。
書籍によって初めて人前で演奏したのは1794年5月26日という記述と、1791年に最初の演奏会を開いたという記述に分かれているが、定かではない(要検証・信頼できるソース求む)
1800年からコンサートを行い、大成功を収めていく。
1805年、ナポレオンの妹エリーザ・バチオッキの宮廷楽団にてコンサートマスターに就任し、さらに弦楽四重奏団の第一ヴァイオリンとなる。
1809年、自分の職務に飽きたパガニーニは巡回コンサート奏者としての道を選ぶ。
評判は高まる一方で、1813年のミラノでのコンサートは音楽的な一大事件となる。
1815年9月、ジュネーブで自作の『ヴァイオリン協奏曲第一番ニ長調』を初演。技巧を追及した成果として、同時期に『24のカプリース』を作曲している。
1824年、若き歌姫アントニア・ビアンキと出会う。1825年に息子アキッレ・アレッサンドロを授かる。
1827年、ローマ教皇レオ12世から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を叙される。
1828年、イタリアを離れ、始めて国外ツアーに出る。ウィーンでは『ヴァイオリン協奏曲第二番 カンパネルラ』を14回のコンサートで演奏し大成功をおさめ、オーストリア皇帝から叙勲を受ける。
この演奏会でパガニーニの演奏を聴いたシューベルトは「天使が歌うのを聴いた」と語ったという。
1829年にはベルリン、ポーランド、ドイツ全土で演奏。
1831年3月9日にパリ、3か月後にはロンドンで演奏し、大絶賛を受ける。
パガニーニの技巧は超人的と言われ、彼の超絶技巧に衝撃を受けた聴衆からは「悪魔の化身」と言われるほど。目つきが鋭く、また病弱だったためにやせていて肌が浅黒かったのもその一因だったという。
ヴァイオリンの歴史にも大きな影響を与え、パガニーニ以前とパガニーニ以後という時代区分が生まれるまでになっている。
自身の作った曲の中ではダブルストップのハーモニクス奏法、リコシェの弓のストローク、バットゥートと左手ピッチカートを交互に素早く弾く奏法など、これまでになかったテクニックを次々と披露していった。
それまで知られていた技術的限界をはるか遠くに押し広げ、彼の残した技術的貢献の域に達する人物が現れるのは19世紀後半以降、イザイやハイフェッツらの時代まで待たなければならなかった。
ピアノで有名なリストは初恋に破れ沈んでいた20歳の時にパガニーニの協奏曲4番を聴いて、「私はピアノのパガニーニになる」と奮起し超絶技巧を磨いたという逸話もある。
パガニーニの名曲、『ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調』の第3楽章は『鐘のロンド(ラ・カンパネラ)』として有名だが、これをモチーフにしたピアノ曲をリストが書いている。
またパフォーマンスを好み、コンサートで演奏中にヴァイオリンの弦が切れていった時*1、残ったG線一本で曲を弾ききったという逸話も残っている。
スキル名「一弦の悪魔」はこれが由来だろう。
パガニーニのもとには莫大な資産が集まり、女たちにもてはやされ、やがて彼は快楽の深みにはまっていった。
特にギャンブルには目がなく、自分のヴァイオリンを質に入れることがあったとまで言われている。
またパガニーニは貴重なヴァイオリンを蒐集し、時期を見計らっては売買していた。
ヴァイオリン史に残る世界的な名器のいくつかは彼の手を経ている。
死去した時点で22挺のヴァイオリンを所持していたが、その中には三大ヴァイオリンと言われるストラディヴァリ11挺、グァルネリ・デル・ジェス2挺、ニコロ・アマティ2挺が含まれていた。
1834年を過ぎると、健康状態が悪化。結核と梅毒の症状に苦しめられる。
この頃、音楽とギャンブルを融合した「カジノ・パガニーニ」の計画も企画されたが、本人の健康状態の悪化から、潰えてしまう。
1838年10月には咽頭に深刻な症状が現れて声が出せなくなる。
1839年秋にニースに居を移し、1840年5月27日にその地で没した。
パガニーニが没した時、聖職者たちはその倫理意識を欠いた生活を理由に、墓地への埋葬を認めなかった。
死の直前に彼を訪ねたカッファレリ神父は、臨終の秘跡を断られたと証言している。
カトリック教会はパガニーニを無神論者と宣告し、遺体は各地を転々として公開された。
防腐処理され名演奏家に相応しい衣装につつまれ、顔の部分にガラス窓のある棺に収められた。
棺はヴィラ・フランカ*2に安置され、連日人々が群がった。
地元漁師によると、夜中に恐ろしい音や音楽が聞こえ、棺の周りには悪魔の姿も見えたという。
その後何度か掘りだされ、防腐処理を施された後、再び埋葬された。
1926年には最後の埋葬地であるジェノバの共同墓地に移された。
その墓碑銘には「ニコロ・パガニーニ、その楽器より聖なる響を引き出しき者」と刻まれている。悪魔なのに聖なる響きとはこれ如何に
パガニーニの天才的な技巧については、いくつかの考察がなされている。
まず最初にその完璧な耳と絶対音感が挙げられる。
リスト、シューベルト、ショパン、メンデルスゾーンの全員が証言するように、彼の調弦は正確無比であった。
また記憶力が驚くほど良かった上、リストのように初見がきき、その妙技を人前で披露することもあった。
彼の独特な体型も演奏に影響した。
長年パガニーニを診た医師フランシスコ・ベナティは次のように述べる。
体型や肩や手足の独特な配置がなければ、今日私たちが賞賛するような、類まれな名演奏家としてのパガニーニは存在しなかっただろう。左肩が右肩より高く、そのため両腕を体につけて直立すると、体の半分が実際より長く見える。肩腱のしなやかさ、手首と前腕、さらに指骨と手全体を繋ぐ筋肉の弛緩の様子もすぐわかった。
手の大きさは普通だが、各部位の独特のしなやかさのため、いっぱいに広げると、親指から小指までの長さは倍になった。そのために、例えば(手の位置は変えずに)左手の指の第一関節を外側に、いとも簡単に素早く曲げることができた。生まれながらに与えられた器官の配置を、パガニーニは練習によって完璧なものとしたにちがいない。
ゲームにおける彼女の立ち絵はこれが由来と思われる。(曲げているのは右手だが)
特に左手がしなやかで、ひと弓で3オクターブを弾くことが出来た。
肩関節も異常なほどしなやかで、演奏中に両肘を肩のところで交差させたことが知られている。
当時の批評家たちによると、「パガニーニに欠点があるとすれば、それは大きな音量を出せないことだ」という。
元々パガニーニは体が丈夫ではなく、体力のなさを指摘したものだろうが、パガニーニのしなやかさが靭帯の緩やかさと関係するなら、体力のなさも説明がつくとの説もある。
また現代になって、パガニーニはマルファン症候群(先天性膠原病)であったという指摘がなされた。
マルファン症候群の人は異常に痩せて長身であり、また指が長く大きな柔らかい手をしていることが多いということで、多くの特徴がパガニーニのものと一致する。
しかしながら先に述べたように「手の大きさは普通」という報告があるほか、機械的な反復運動で靭帯に生じた外傷のために靭帯がしなやかになったとか、慢性的な捻挫を起こしていたなど、後天的な反復練習の影響を主張する説もあり、真偽は定かではない。
パガニーニの生涯における健康状態も追記しておく。(悲惨な内容なので閲覧注意)
6歳の時に麻疹に罹る。周りのものはパガニーニが死んだと思い、死装束につつんで葬式を始めるが、その時かすかに動くのが分かり、辛うじて埋葬されずに済んだとのこと。
脈も確認しなかったのだろうか。それともこのとき悪魔が乗り移ったか
1820年の手紙には深刻な健康問題が綴られている。
その年、パガニーニは慢性的な咳に悩まされ、体重も減り始めた。
このとき医師の診察を受け、体内から隠れた毒素を取り除くために下剤を処方された。
後にこの下剤を乱用して重病となる。
咳はなかなか治らず、1823年にシラ・ボルダ博士の診察を受けると、博士は原因を「長期間潜伏した梅毒の感染」によるものと診断し、水銀と咳止めにアヘンを処方される。
友人ルイジ・ジェルミへの手紙で「殺人的」と評したほどの量であった。
この毒殺でもするかのような処方は中世から20世紀初頭に砒素剤が導入されるまで続いた梅毒治療であったが、当然強烈な副作用がパガニーニを苦しめた。
口内炎、胃腸障害、歯の緩みの他、1828年頃には視力が落ち始め、筆跡も乱れていった。
その後別の医師に診てもらうと今度は肺結核で余命一年を宣告される。
同年のオーストリア演奏旅行の際、ベナティ医師に診てもらうと、彼が慢性水銀中毒に苦しんでいることを正しく推察した。
その折に水銀と下剤の乱用を禁じたが、パガニーニは忠告を無視して摂取し続けた。
また歯性膿傷のために歯科医のA・M・ド・ヴァルガーニのもとに訪れた時、ヴァルガーニは、パガニーニの歯が糸で括られていたのを知る。
咀嚼できるよう、パガニーニが糸で歯を結わえていたのだ。
膿傷を開き、邪魔な臼歯を取り除いたところ、たちまち下顎が感染して骨髄炎になった。
3人の歯科医と共に下歯を全部抜く治療を行ったが、水銀で酷く傷んだ組織の感染が治るには、長い時間が必要であった。
さらに水銀中毒の副作用に唾液過多がある。
パガニーニは唾液腺と上気道からの汚れた粘液を絶えず吐き出した。
この症状はまた湿性咳の原因となった。
水銀中毒はパガニーニの心理面にも大きな影響を与えた。
過敏症により、野心家で自信にあふれたかつての姿は消え、彼は世を捨てた無表情な男となった。
人前に出るにも神経質になり、ふさぎ込みやすくなった。
1823年から1828年までの外見の変化について、彼の姿を見たものは口をそろえて「死人のような青白さ」と「くすんだ顔色」を語る。
パガニーニ自身も「ひどく醜く」なったと記している。
1828年以後、パガニーニの筆跡は急に乱れていく。
慢性水銀中毒の末期症状で、「帽子屋の震え」と呼ばれる振戦である。水俣病を思い浮かべればイメージが付くだろうか。
1834年を最後に、演奏会をやめてしまう。ヴァイオリニストも引退となった。
1838年には失声症となり、意思の疎通は会話帳を使うようになった。
声が細くなるにつれ、全身の衰弱と呼吸器官の悪化も見られた。
そして1840年5月27日午後5時、パガニーニは死去。
死因は「肺結核及び喉頭結核」であった。
輝かしい功績と名声を手にした大音楽家は、人知れず悲惨な晩年でその幕を閉じたのだ。
余談だが彼の曲は現代のプロバイオリニストでもさえも恐れる超難易度の曲で
練習に数か月を要するほどと言えば、どれだけとんでもないかが分かるだろう。
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