このキャラクターには、元ネタといえる人物が2人いる。
まず、音楽家としての元ネタはフレデリック・フランソワ・ショパン(1810年3月1日*1 - 1849年10月17日)
誰もが一度は聞いた事がある『子犬のワルツ』や『英雄ポロネーズ』等の数々のピアノ曲を作り出したポーランドの前期ロマン派音楽を代表し、とても繊細な調べを奏でることから"ピアノの詩人"と呼ばれる作曲家である。父の出身地であり彼も大いに活躍し生計を立てたパリ、フランスの音楽家としての側面もあるが 本人は終生、別れを告げた故郷ポーランドへの強い愛国心を持っていた。
彼の家族はみな音楽方面で何がしかの才能を発揮した。4人兄弟(姉一人妹二人)の2人目の子として生まれた彼は7歳からピアノを学んだショパンは"第二のモーツァルト"と呼ばれ12歳で当時のワルシャワ音楽院院長ヨゼフ・エルスナーから直々に作曲について学んだ。16歳でワルシャワ音楽院に入学するがエルスナーへの師事は継続、エルスナーはショパンの類まれな才能を認め、型にはまらない音楽家となるよう彼を導いた。
のち19歳で音楽院を主席で卒業、翌年には音楽の都ウィーンでの演奏会を成功させ、音楽界での成功のために故郷ポーランドを永遠に離れる決意をしパリへ向かった。その道中彼はワルシャワ陥落の知らせを受け大いに悲しんだが、その再起を信じ「革命のエチュード」を作曲した。
1831年(21歳)パリに到着したショパンは、多くの音楽家と交流を持つと共にやがてピアノ教師として自活、多くの弟子を持った。
翌1832年(22歳)ショパンは、パリで開催した第一回目の演奏会で大成功を収め、ショパンより1歳年下で当時パリで活躍していた同じくピアノ会の巨匠と言われるフランツ・リストさえも、ショパンの才能に驚いたという。リストは後にもショパンと交流を持ち、互いに才能を認めあった。
これをきっかけに上流社会に足を踏み入れたショパンは、名門ロスチャイルド家の庇護を受け、パリ中のサロンで大人気を博した。
25歳のとき、ドイツ旅行中から両親に会うためにチェコを訪問、その帰途で旧友のポーランド貴族マリアと再開し恋に落ちる。この時「別れの曲」を作曲するが、彼女の両親の反対で恋は実らなかった。
その後、リストの紹介でその愛人の伯爵夫人のサロンにて、男装の女性作家で、男性遍歴の多いジョルジュ・サンドと出会う。彼女の初対面の印象は最悪だったが 彼女の好意を受けその後10年の交際を続けた。
晩年の彼は1848年(37歳)、革命のためにパリを離れ生徒の招きでロンドンに滞在。彼の演奏家としての名声は陰りを見せていた。また、彼はこの時期健康を大きく害し、のちにパリへ戻るも回復することはなく、気も弱り家族と過ごすことを望んで姉を自分のもとに呼び寄せた。彼の最期を看取った人間は限られたが、のちに何人もの人間がその場に居合わせたと主張したという。
名前としての元ネタは、上記フレデリックの実妹であるエミリア・ショパン(1812年11月9日 - 1827年4月10日)。ポーランド時代のショパンを語る上で欠かすことのできない少女である。
兄同様の天才児であり、ショパン家の第二の神童とまで言われていた、ピアノの…ではなく本当の意味での「詩人」。残念ながら才能を完全に開花させる前に若くして結核に冒され亡くなってしまっているが、
《死ぬことは私の天命 死は少しも怖くはないけれど 怖いのは貴方の記憶の中で 死んでしまうこと》 など数々の詩(原詩はポーランド語の韻文)を作ったり、「この地上、人の定めの何と悲しいこと 苦しんで、また隣人の苦しみを増すなどは!(韻文)」「ワインを私にくれないと、顔色が悪くなりますよ(韻文)」など病床だろうが詩的発言を忘れなかったり、病に倒れる以前には兄妹で芝居を共同製作し、姉・友人を巻き込んで両親の友人一同の前で上演したり、さらには姉と一緒に児童文学の翻訳をしたりなど、とても優れた芸術的な才能を持っていたのは間違いない。仮に生きていれば女流作家として名を残していただろう。…と、当時のポーランドの文壇でもその死が惜しまれたようである(児童向け雑誌に訃報のページがわざわざ組まれるくらいには)。ワルシャワの樋口一葉、は言いすぎかもしれないが、それなりに有名人だったのだ。しかし現在では、あくまでも兄フレデリックの少年期に言及するときに名前がでる程度である。
……はずなのだが、なぜかこと日本においては、ガルシンにおける名前の採用もさることながら、RPGのヒロインのモデルにされて崖から飛び降りさせられたり、「ルパン三世」のTVスペシャルでAIのモデルにされて暴走させられたりなど、なかなかぶっ飛んだ活躍(?)を時たま見せている。文学少女要素どこいった。
ちなみに、エミリアは文学の才能に恵まれた一方で、他の家族は皆嗜んでいたピアノの方はからっきしだったとする説もある。そりゃグランドピアノ斧にして振り回したくなるかもしれない。
なお、兄であるフレデリックもエミリア同様肺が弱く、一時期共に闘病生活をしているほか、28歳で妹と同じ肺結核を患い、39歳で亡くなるまで苦しめられた。
また、先述の通りエミリアの演劇活動にはフレデリックも積極的に参加しており、ユーモアや演技などの才能は家族の中でもこの2人が飛びぬけていたという(特に兄の方は、役者の道に進むことを勧められたことさえあった)。病弱キャラと、特技が「声帯模写」になっているのは、ショパンのこれらのエピソードから。身近な家族であり、かつ共通点も多いことから、妹である「エミリア」の名が、ガルシンではつけられたと考えられる。
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