マリア・アンナ・アンゲリカ・カタリーナ・カウフマン
(Maria Anna Angelika/Angelica Katharina Kauffmann)
誕生 スイス 育ち オーストリア
英語では アンジェリカ・カウフマン と読む。
実は演奏家でもあるが、画家としても活動している。トライアングルの絵が正にそれである。
スイスのグラウビュンデン州クールで生まれているが、父親の出身地であるオーストリア・フォアアールベルク州シュヴァルツェンベルクで育っている。
父親は、ヨーゼフ・ヨーハン・カウフマン。母親はクレオフェア・ルッツ。
父親からは絵を、母親からは複数の言語を教わった。
後に見つかった1764年8月に書かれたヨーハン・ヨーアヒム・ヴィンケルマン(※1)が友人に当てた手紙で 『ドイツ語と同じくらい上手くイタリア語を話し、フランス語、英語も解していた』 と書かれていた。
※1アンジェリカ・カウフマンは ヴィンケルマンの半身肖像画とエッチングEtching(ニードルを用いた線画での凹型版画)を描いている。
12歳の時にアンゲリカが描く絵のモデルに聖職者や貴族たちがなってることで有名になるが、1754年には父親にミラノに連れて行かれる事になる。
そこから 1754年ミラノ→イタリア(長期間の旅行として)→1763年ローマ と言うルートを辿ってる。
1764年には帰国するのだが、ローマから帰る途中でボローニャやヴェネツィアにも立ち寄っている。
ヴェネツィア滞在中にアンゲリカはドイツ大使の妻ウェントワース夫人に誘われてロンドンに同伴していく。 ロンドンで【デヴィッド・ギャリックの肖像画】を描き、「メイデン・レーンのモレイン氏の大きな部屋」に着いた年に展示された。そして、ウェントワース夫人からの紹介された形で社交界デビューする事に。
大親友(お互いに肖像画を描きあって相手に贈る程度ではあるが)に窮地を救われた事もある。その恩に報いた形として、 ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ設立のための王への請願書に署名している。
その初代校長に就任してるのが、アンゲリカの大親友 サー・ジョシュア・レノルズ。
ちなみに 育ったシュヴァルツェンベルクにはアンゲリカから名を取った 「アンゲリカ・カウフマン・ザール」というコンサート・ホールがあり、 国際的に有名なリートおよび室内楽の音楽祭 「シューベルティアーデ・シュヴァルツェンベルク」の主会場にされている。
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