ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(1792-1868)。 作曲家であり美食家。
代表曲はスキル名でもある「ウィリアム・テル序曲」。 作品傾向はオペラが中心だが室内楽・宗教曲も手掛けている。
美食家なせいか、料理が好きだったせいか肖像画を始めとするものは若干小太りに描画される事が多い。
作曲家としてのロッシーニ
オペラ作家として非常に高い人気を持っていたロッシーニ。 その数は39とオペラでは多め。
しかし生涯76年に対してオペラ作家活動期間はおよそ20年。 つまりかなりのハイスピードで作曲している人。
当時の作曲家(ショパン等)や大衆から高い評価と人気を持っており
ベートーヴェンが「セビリアの理髪師」を絶賛し「貴方はオペラ以外のものを書いてはいけません」と言われた程の腕前。
(ただ当時のベートーヴェンは人気がなく、裏で愚痴っていたとも)
ただ曲の構成は「創作概念なんて知ったこったない」な程の問題だらけ。
同じ旋律を使い回すのは朝飯前。 (ウィリアム・テル)
序曲を使いまわす。 (セビリアの理髪師→パルミーラのアウレリアーノ→イングランドの女王エリザベッタ)
他の人のメロディを使う。 (ベートーヴェンの第8交響曲を使っている曲がある)
細部変えただけで別の曲にした。 (ランスへの旅→オリー伯爵)
現在考えれば大問題だらけな作りであった。
またクレッシェンド(徐々に大きくする演出)が浮き出るような特徴があり
同じ旋律を繰り返しながら徐々に演奏規模を大きくし、最後に頂点を目指すような作りになっている。
この表現はロッシーニ独特のものであり「ロッシーニ・クレッシェンド」と呼ばれる。
使用している旋律は非常に評価が高く、 盛大に活用した というか 使いまわした は個人差があり
当時でもここで評価が分かれていた。
ロッシーニ最後の集大成「ウィリアム・テル」
「ウィリアム・テル(正式名 ギヨーム・テル)」はロッシーニが最後に出した「オペラ作品」である。
上記曲構成をフルに活用した作品とも言われており、ロッシーニの代名詞と言えばこれであろう。
今でも運動会を始め、テレビ・ドラマ・映画だけでなく
ゲーム(主にSTGで出したあの会社のせい)でも使われる程人気のある楽曲だが
ご存知のあの部分は「序曲(大まかなあらすじを紹介する)第4幕」に相応する。
どういう場面かというと
「息子ジェミの頭のリンゴをテルが射抜いた…のだが
それを命じたジェスレルが「もし失敗したらテルはジェスレルを射抜いていた」と告げ (ここまで第3幕)
逮捕しようとした直後にスイスの反乱軍が出て来る所」 (ここから第4幕)
要は「兵隊の突撃シーン」である。 そこは今の用途とあんま変わってなかった…。
才能がある怠け者ロッシーニ
自他共に「才能はあるが怠け者」と呼ばれている。
ただ全力を出せばオペラを3週間で作ったり(セビリアの理髪師)、1年の間に3~4つ程作る異常なスピードを出す。
ウィリアム・テルを出してオペラ作家を引退したロッシーニだが、その後
「昔はメロディから私の方に来てくれたが最近は来なくなった。自分は怠け者なので探しに行くのが面倒だからオペラ作家を辞めた。」
という程であった。
作曲面以外も中々ひどく
「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得たロッシーニが引退後を「年金生活」なんて呼ばれ
新政府と相談し前国王政府からあった給付された年金を確保していたりと引退後の生活もなかなかな手腕であったという。
美食家としてのロッシーニ
音楽界を引退したのが44歳。 その後は美食家としての道を歩む。
若い頃から料理を食べる・作るのが好きだったロッシーニは引退後料理の創作や高級料理店の経営をしていたという。
(フランス料理にある「~のロッシーニ風」も彼の影響。 肉主体にフォアグラとトリュフを使ったもののこと)
なおこの頃も作曲はしていたようだが…
料理名が曲名だったり、ワーグナーの話中に鹿の肉焼いてたり と美食家としての方が強かったという。
一発屋ロッシーニ
死後、彼の名前は一気に忘れ去られることになる。 (1作品だけ注目される「一発屋」のような扱いだった)
しかし1960年台ぐらいからロッシーニ財団が全集を出し再びロッシーニのオペラが評価されるようになり、一気に人気が出るように。
この現象を後に「ロッシーニ・ルネッサンス」と呼ばれるようになった。
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