#author("2017-06-08T05:31:21+09:00","","")
#author("2017-06-08T17:19:19+09:00","","")
*ジョアンナ・シュトラウス[#pbccdeb7]
#region(''上限解放後(2回目)''_)
&attachref(,nolink,70%,){上限解放後の画像を添付}; ※JPG200kb前後推奨_
#endregion

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|CENTER:|>|>|>|CENTER:110|CENTER:100|c
|>|>|>|>|>|~プロフィール|
|>|>|&attachref(シュトラウス.jpg,nolink,70%,){キャラクターの画像を添付};|~名前|>|ジョアンナ・シュトラウス|
|~|~|~|~レアリティ|>|[[☆☆☆>☆☆☆性能一覧/テーブル]]|
|~|~|~|~属性|>|COLOR(purple):神秘|
|~|~|~|~タイプ|>|ファイター|
|~|~|~|~種別|>|演奏家|
|~|~|~|~出身|>|シャルロワ地方|
|~|~|~|~好きな贈り物|>|宝石|
|~|~|~|~好きな物|>|ワカメや緑黄色野菜など健康にいい物|
|~|~|~|~特技|>|ダイエット、健康法やアンチエイジング|
|~|~|~|~趣味|>|電信ワルツ、加速度ワルツ、爆発ポルカ、&br;永久機関などの作曲(新しい物好き)|
|~|~|~|~長所|>|お洒落で陽気、死さえ絡まなければ快活|
|~|~|~|~夢|>|永遠に若いままで生きたい|
|~|~|~|~SD|>|&attachref(シュトラウスSD.gif,nolink,){キャラクターアニメGIFを添付};|
|~自己紹介|>|>|>|>|''また会えてうれしいわ、指揮者さん。&br;改めて、私はジョアンナ・シュトラウス2世。&br;「ワルツの女王」と呼ばれているわ。&br;オペレッタ、少し短めのコメディ・オペラも得意なの。&br;人が、その、天国へ旅立つような話は嫌いよ。&br;だから私の前では、絶対にそういう話はしないでね。&br;お願いよ。''|
|>|>|>|>|>|~ステータス|
|~Lv|~生命力|~攻撃力|~補助力|~回復力|~備考|
| 1|1480|1400|585|0|-|
|50|4224|3017|928|0|~|
|60|????|????|????|????|~|
|70|????|????|????|????|~|
|シンフォニアボード|+350|+420|+260|+260|攻撃特化型|
|LV70+シンフォニアボード|????|????|????|????|~|
|>|>|>|>|>|~スキル・アビリティ|
|~戦闘スキル (Lv1 → 5)|>|皇帝演舞曲|>|>|発動可能ターン:5→?|
|~戦闘スキル (Lv1 → 5)|>|皇帝円舞曲|>|>|発動可能ターン:5→?|
|~|>|>|>|>|敵1体に自分の攻撃力の 135→???% のダメージを与える|
|~|>|>|>|>|&attachref(シュトラウスskill.gif,nolink,){戦闘スキルアニメGIFを添付};|
|~アビリティ:1|>|旋律のレジェロ|>|>|自身の補助力を10%アップ|
|~アビリティ:2|>|独奏のフォルテ|>|>|自身の攻撃力を15%アップ|

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*ジョアンナ・シュトラウスについて [#wfa8daad]
//(公式Twitterより)
「ヴィエンナの太陽」とも呼ばれる美しい白い髪の演奏家さん。
ジョアンナさんは争いごとを嫌い、シャンパンと軽い騒ぎを愛す陽気な人で、ブラームスさんの親友でもあります。
時折、物憂げな表情をされているのも魅力でしょうね。(公式Twitterより)

2017年6月7日開始のイベント[[六月の花嫁のワルツ]]の報酬として実装された☆3の楽団員。



// illust:[[>]]

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#region(''元ネタ解説''_)
ヨハン・シュトラウス2世(ドイツ語: Johann Strauss II. (Sohn), 1825年10月25日 - 1899年6月3日)

オーストリアのウィーンを中心に活躍した作曲家・指揮者。
ヨハン・シュトラウス1世の長男。弟にヨーゼフ・シュトラウスとエドゥアルト・シュトラウス1世、甥にヨハン・シュトラウス3世がいる。

生涯のほとんどをウィンナ・ワルツ、ポルカなどの作曲に捧げ、『美しく青きドナウ』、『ウィーンの森の物語』、『皇帝円舞曲』などのよく知られたワルツを数多く生み出した。
オーストリアのみならずヨーロッパ中で絶大な支持を獲得し、「ワルツ王」、「ウィーンの太陽」、当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と対比する形で「ウィーンのもう一人の皇帝」などと呼ばれた。
のちにオペレッタの分野にも進出して、オペレッタの最高傑作といわれる『こうもり』などを生み出し、「オペレッタ王」とも呼ばれるようになった。

1825年10月25日、ウィーンの数キロ南に位置するザンクト・ウルリッヒ地区のロフラノ通り76番地で誕生した。
シュトラウス家は遠くユダヤ系ハンガリー人の血を引いていることは間違いないと思われるが、このことがヨハン2世の生前に何らかの形で言及された記録は残っていない。
後年、彼はハンガリーに題材をとった作品を多く残しているが、そのことと自らの家系を結び付けた発言も特にない。
また、数世代も前の改宗まで遡って身元調査的にユダヤ人呼ばわりする差別が行われ始めたのはナチスからであるが、ヒトラーが大のシュトラウスファンであったため、遠祖に関して問題にされることはなかったという。
なお、シュトラウスという姓自体がユダヤ固有というのは誤りであり、南ドイツ地方ではごくありふれた名前である。

父は音楽家ヨハン・シュトラウス1世、母は居酒屋の娘マリア・アンナ・シュトレイム。
婚前妊娠であり、母がヨハンを身ごもったと発覚したことが両親の結婚のきっかけとなった。

ヨハンは父の影響により、幼少の時から音楽家に憧れ、ピアノだけでなくヴァイオリンや和声を中心とする楽典を身に付けていく。
父はそんな息子を許せず、密かに買ったヴァイオリンを叩き壊すなど音楽への興味関心をへし折ろうと躍起になっていた。しかも愛人を作り、彼女に入り浸って金を貢ぐようになっていった。

逆に母アンナはヴァイオリンを新たに買い与えるなどして息子を応援していく。

その後も父の妨害は続いたが、ヨハンはこれに抵抗し、やがてデビューを果たすことになる。
だが当時の法律により、音楽家になるには20歳以上でなければならなかった(ヨハンはこの時まだ18歳であった)。
そこでヨハンは役所に行き、「父親が家庭を顧みないために生活が苦しく、私ひとりで母や弟の面倒を見なければならないのです」と涙ながらに訴えた。
有名人の息子の願い出に対し、ついには頑固な役人も首を縦に振った。
「家族を助ける青年音楽家」という美談がウィーンに広まり、ヨハン2世の印象を良いものにしてくれた。

そうして父とはライバル関係となり、第二の「ワルツ合戦」が幕を開けた年、母アンナは夫に離縁状を叩きつけ、離婚が正式に成立させる。
1846年から1847年の間に、シュトラウス親子は同じオペラに基づく楽曲3つをそれぞれ作曲した。これらはいずれもカドリーユであることから、「カドリーユ対決」と呼ばれる。
しかしやがて親子は和解し、音楽上の協力までするようになるが、1849年、父ヨハン1世と死別することになる。

この間、革命運動にも参加した。
東欧への演奏旅行に行っていた際、1848年革命が起こり、ヨハン2世は、ただちに祖国に戻ってオーストリア南部のシュタイアーマルクからウィーンの革命のなりゆきを傍観。
そして市民側が優勢と判断し、革命支持者を名乗ってウィーンへ戻った。
そして、『革命行進曲』、『学生行進曲』、『自由の歌』などを作曲し、学生を中心とする若い革命参加者の先頭に立った。
挙句の果てには、当時オーストリアでは禁制だったフランスの革命歌『ラ・マルセイエーズ』を演奏してみせた。
このような反政府的活動によって、当時の宮廷からは嫌われてしまう。

だが、ヨハン2世は次第に革命運動に対して嫌気がさし、革命が鎮圧されるとヨハン2世はバリケードを片付け、元の生活に戻ろうとした。
皇帝がフェルディナント1世からフランツ・ヨーゼフ1世に代わると、ヨハン2世は一転し『皇帝フランツ=ヨーゼフ行進曲』を作曲するも、皇帝からは何の反応もなかった。
ヨハン2世はラ・マルセイエーズを演奏したことから、要注意人物として警察に監視されるようになってしまっのだ。
警察への出頭を命じられ、この時の様子を激しく細かく尋問された。
ここでヨハン2世は、確固とした思想によるものではなく、単なる出来心にすぎない、と繰り返し供述した。最後には「もう二度と、このような馬鹿なまねはいたしません。ですから、どうかお許しを」と深く後悔した様子で警察官に誓ったという。

父の死後、シュトラウス楽団を自分の楽団に吸収する。
それまで親子に分散されていた仕事が、父の死によってヨハンのもとに集中するようになったため、この時期のヨハンは非常に忙しく、一晩に舞踏場やレストランを5軒以上も演奏に回ったとされ、馬車の中で作られたワルツもあるとさえ伝えられる。
その多忙さから、しばしば再起不能かと思われるほどの重病に倒れ、1850年には過労によって危篤状態にまで陥った。

そこで母アンナは1853年、次男ヨーゼフに兄の代役として指揮者を務めさせることを思いつき、ヨハンもこれに同調する。
更にアンナとヨハンは末弟エドゥアルトをも音楽家の道に引きずり込んだ。
結果的にはヨハンが倒れたことが、弟たちに音楽家人生を歩ませるきっかけとなった。
法律家協会、医師会、技術家協会、芸術家協会などの団体が公開舞踏会を催す際には、決まってヨハンのもとに新曲の依頼が飛び込んできた。
兄弟で仕事を分担するようになってもヨハンの生活は相変わらず多忙をきわめ、「いつも夜会服を着て暮らす男」と呼ばれることもあった。

その後もロシア・パヴロフスクでの公演、オペレッタへの進出、アメリカでの公演を経て、1894年には、ヨハンの音楽家生活50周年のための一連の祝賀行事が盛大に催された。

歳を取ってもヨハンは、黒々とした髪、ゆたかな髭、若々しい肌、伸びた背筋を保っていた。
そのためヨハンはしばしば「永遠の若者」と呼ばれたが、髪の黒さは染め粉、髭はポマード、肌は紅、背筋は燕尾服の下のコルセットのおかげであった。
人々の前では元気にふるまいながらも、家に帰れば疲れ果てた様子でソファーに倒れこむような状態だったという。

老いは確実にヨハンの体を蝕んでいたのだ。
ヨハン自身も死がそう遠くないことを悟っていたようで、作品番号の付けられた最後の作品『ライムント時代の調べ』は、まるで生涯を回想するかのような作品となっている。

1899年の5月下旬、劇場で自作曲の指揮をしていたヨハンはひどい悪寒をおぼえ、数日後に無理を押してサイン会を開いた後、その晩から寝込んでしまった。
何人かの医師が診察した結果、当時は命取りの病とされた肺炎であった。

妻アデーレはヨハンに本当の病状を隠した上で「神経痛ですから、しばらく我慢してね。すぐに良くなるわよ」と嘘をついた。
ヨハンは書きかけのバレエがよほど気になっていたようで、作業を中断せざるをえない悔しさを幾度となく口にしたという。
肺炎に侵された体をむりやり起こし、作曲の筆をとろうともしていたそうである。
高熱に襲われ、幻覚症状におちいったヨハンには、周囲の人形がバレリーナに見えたらしい。

6月3日、前の晩から付きっきりで看病していた妻アデーレから「あなた、お疲れでしょう。少しお休みになったら……」と言われたヨハンは、微笑んで「そうだね。どっちみちそうなるだろう……」と答えて目をつぶった。

妻に答えたこの言葉がヨハンの最期の言葉となり、その日の午後4時15分、ヨハンはアデーレに看取られて死去した。

グスタフ・マーラーからウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲(『灰かぶり姫』というシンデレラ物語)を委嘱されていたが、ヨハンの存命中には完成せず、未完のまま世を去ることになる。
マーラーがその未完の作品を上演することはなかった。

ヨハン死去の知らせを受けたウィーン市は、ただちにウィーン中央墓地の中に特別墓地を設けることを決定した。
葬式には10万人の市民が参列したとされ、この際ヨハンの「新曲」がいくつも追悼として演奏された。
未亡人となったヨハンの妻アデーレが、夫の未発表作品を世に送り出し、さらには遺された膨大なスケッチを集め、別の作曲家に依頼してそれらを巧みにつなげさせ、新作として発表したのである。

死後数年を経てからも、ヨハンの「新曲」は次々と世に出された。
その後ウィーンでは『我らがワルツ王の思い出』『シュトラウスの家』などの歌が流行した。

ヨハンの死から5年後の1904年、シュトラウス記念像を建立しようとする動きが高まった。
その名を知らぬ者はいないほどの有名人であったにも関わらず、その銅像は一つもなかったのである。
委員会が設置され、記念像建立のための募金が始められたが、その途上でサラエボ事件が起こり、活動も挫折を余儀なくされる。

追い討ちとばかりに第一次世界大戦に敗北して共和制に移行したオーストリアについて、「ヨハン・シュトラウスとともに、ハプスブルク帝国も死んだ」といった評価がされることもある。

1921年、ついに黄金に輝くシュトラウス記念像が建立されたが、贅沢すぎるとの批判を受けて黒色に塗り替えられた。
1991年にあらためて元の金色に塗り直されたヨハン・シュトラウス記念像は現在、ウィーンの代表的な観光名所のひとつとして親しまれている。


なお、ヨハンは女性関係でも浮き名を流しており、肉体関係を結んだ相手も数知れず、好色がたたって性病にかかったこともあった。

彼は生涯、三度結婚した。その女性達は以下である。
括弧内の数字は婚姻期間。

・ヘンリエッテ (1862 - 1878)
元は銀行家のモーリッツ・フォン・トデスコ男爵の愛人。
既に二人の子持ちで、しかもヨハンよりも11歳も年上の女性だった。
ヨハンは社交界の花形であり、彼の周囲にはいつも美しい女性が集まっており、彼がどんな女性と結婚するかはウィーンの街角を賑わせた話題だった。
そのような状況で、ヨハンが選んだ相手にウィーンの人々は驚いた。
特にウィーンの女性は、このニュースを聞いて呆然としたという。

ヘンリエッテはかつて「イエッティ」という芸名でオペラ歌手として舞台に立ち、名歌手のジェニー・リンドに匹敵する人気があったといわれる。
ヨハンが彼女と初めて出会ったのは、トデスコ男爵家で催された舞踏会に指揮者として招かれた時のことである。
この時ヨハンは男爵と同棲していたヘンリエッテに一目惚れし、しばしば男爵家の彼女のもとへ通うようになった。
やがてヨハンとヘンリエッテが相思相愛の仲になったことを知ると、トデスコ男爵はふたりの結婚を快く認めたという。

1870年、母アンナと弟ヨーゼフが相次いで世を去って大変なショックを受けたヨハンは宮廷舞踏会楽長などのすべての公的な仕事から手を引く。
そんなヨハンに対し、ヘンリエッテはオペレッタの作曲を勧めた。
当初ヨハンは「自分にはその才能がない」「歌詞のあるものに作曲するのは苦手だ」などといって断るが、ヘンリエッテが熱心に勧めるのでオペレッタを手掛けるようになった。
ヘンリエッテはヨハンの曲を歌ってみて、それにいろいろとアドバイスを与えて励ましたという。

しかし、ヘンリエッテが60歳を超えて急激に老け始めると、妻に対するヨハンの愛情は冷めていき、浮気を重ねた。
ヘンリエッテが死んだ際、死を病的なまでに怖がっていたヨハンは、葬儀の一切を末弟エドゥアルトに任せて、ウィーンから雲隠れしてしまったとされる。



・アンゲリカ (1878 - 1882)
二番目の妻となった女性。
ヘンリエッテの死から半月も経たないうちに、20歳の歌手であったアンゲリカ・ディットリヒが、ヨハンの知人の指揮者の紹介でヨハンのもとにやってきた。
ヨハンは27歳も年下のアンゲリカに一目惚れして夢中になって求婚し、ヘンリエッテの死のわずか2か月後に再婚した。
ヨハンの作品400『キス・ワルツ』には、「愛する妻アンゲリカへ」という献辞が添えられており、ヨハンの熱の上げようが窺える。

だが、肉体的にも精神的にも、この年の差夫婦が釣り合うはずがなかった。

華やかな音楽家の生活に憧れてヨハンと結婚したアンゲリカは、すぐにヨハンとの結婚に失望。
ヨハンのことを「老いぼれ!」と罵り、平然と浮気をするようになった。
アンゲリカは結婚5年目にアン・デア・ウィーン劇場の若い監督シュタイナーと恋に落ち、ヨハンを捨てて彼と共に駆け落ちした。
これによって面目を失ったヨハンは、オーストリア国外に逃れようとすら考えたという。

なお、彼女はその後すぐに監督と破局し、ヨハンを裏切ったことを後年しきりに悔やんでいたと伝えられる。

1926年、ヨハンの手紙をまとめて出版した。



・アデーレ (1887 - 1899 )
三番目の妻でヨハンの最後の妻。
ヨハンの幼馴染で、シュトラウスというヨハンと同姓の家に嫁いだが、夫に先立たれ未亡人となっていた。

かつてヨハンがヘンリエッテと暮らしていた「鹿の館」で隣人同士でもあった。

ヨハンはアデーレが少女だった頃から好意を寄せていたので、フェルディナント橋での再会後、ときおり贈り物をしたりして彼女に近づくようになり、ついにはその心を射止める。
アデーレは、別れた妻アンゲリカよりも更に若い26歳だった。

しかし、アデーレとの結婚にはいくつか障壁があった。
駆け落ちした妻アンゲリカは結局恋人に捨てられ、ヨハンとよりを戻そうとしていた。そのため、アンゲリカは正式な離婚に応じようとしなかった。

また、アデーレはプロテスタントでしかもユダヤ人であり、カトリックのヨハンが彼女とウィーンで結婚するのは面倒なことが多かった。
しかもヨハンには離婚の前歴があるため、カトリックの教理によって再婚は無効と見なされたのである。
そこでヨハンはオーストリア国籍を捨ててドイツ帝国内のザクセン=コーブルク=ゴータ公国に籍を移し、さらにプロテスタントに改宗した。
この国籍変更には、ヨハンの熱心な信奉者であった公爵エルンスト2世の尽力があった。
ヨハンとアデーレはただ国籍を移しただけで、その後もウィーンで暮らした。
公国内に家を構え、税金も納めたが、それらはあくまでも結婚のための方便だった。

アデーレは最初の妻ヘンリエッテのように献身的な女性であり、彼女との夫婦生活は幸福なものであった。実はかつて隣人時代にヘンリエッテがどのようにヨハンを支えていたかを、アデーレは知っていたのである。
子供のいないヨハンは、彼女の連れ子であるアリーチェを実の娘のように可愛がったという。
なお、アリーチェは1896年にヨハンと親交のあった画家フランツ・フォン・バイロスと結婚している。

ヨハンの死を看取った後、未亡人となったアデーレは女性関連の悪い噂を必死になって否定し、ヨハンの清潔さを喧伝した。

*****

スキル『皇帝円舞曲』について

ヨハン・シュトラウス2世が1889年に作曲した演奏会用のウィンナ・ワルツ(19世紀のウィーンで流行し、ウィーン会議を通してヨーロッパ中に広まっていった3拍子のワルツ)。

原題のまま『カイザー・ワルツ』と呼ばれることも多い。

晩年の作品の中では最も高い人気を誇っており、シュトラウス2世の「十大ワルツ」に数えられ、その中でも『美しく青きドナウ』と『ウィーンの森の物語』とともに「三大ワルツ」に数えられる。




#endregion

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#region(''ボイス''_)
|>|~図鑑収録ボイス|
|~シーン|~セリフ|
|タイトルコール|ガールズシンフォニー|
|戦闘開始|私を殺すつもりなら容赦しないわ。|
|通常攻撃①|来ないで!|
|通常攻撃②|消えてよ!|
|味方ステータスアップ|良いじゃない。|
|味方ステータスダウン|き…気持ち悪い…。|
|生命力回復|あぁ、本当にありがとう!|
|敵撃破|嫌よ…見るのも嫌…。|
|スキル発動|ワルツの女王の力、思い知りなさい!皇帝演舞曲!|
|ダメージ発生||
|大ダメージ発生|いやあ!死にたくない!|
|戦闘不能|あれ?なんだ…こんなものだったの…。|
|戦闘勝利|私は生き延びるの…何をしてでも。|
|編成団員に選出|危険なことはさせないでね…お願いよ。|
|団員レベルアップ|良い感じね。この調子でいきましょう。|
|マイページ楽団員ボイス①|自慢じゃないけど、フットワークは軽い方よ。友達に頼まれたら、ヴァイオリンを担いでホイホイ遊びに行くわ。&br;ワルツを弾いて、みんなで踊って、シャンパンで乾杯!人生笑って過ごすのが一番よ。|
|マイページ楽団員ボイス②|ブラームスさんと私は親友なんだけど、彼女は私と一緒に写真に写るのを嫌がるの。&br;写真を見た人達に、服がダサいと馬鹿にされるから…って。それならあの人もお洒落に気を配れば良いのにね。|
|マイページ楽団員ボイス③|この白い髪…見る度に憂鬱になるわ。まるで、お婆ちゃんの髪…嫌だわ…。&br;私は年を取りたくないの。永遠に若くいたい…。手入れは大変そうだけど、私は音精が心の底から羨ましいの。|
|好感度Lv20未満|ワルツみたいな舞踊曲や明るい喜劇のオペレッタは、評論家には高く評価されない分野なの。&br;でも、私はみんなを喜ばせる音楽が好き。偉い人に評価される曲よりも、みんなが楽しく口ずさむような曲が私の理想よ。|
|好感度Lv30未満||
|好感度Lv30未満|私が時々、物凄く臆病な卑怯者になる事に…貴方はもう気付いているでしょうね。&br;私は…死が怖いの。文字で見るのさえ嫌。現実の死は綺麗事じゃないのよ。|
|好感度Lv40未満||
|マイページ楽団員放置||
|マイページ楽団員放置|平和ね…。孤独を感じるのは嫌いだけど、こうして無事でいられるのは、少し嬉しい。戦いなんて…早く終わればいいのに。|
|贈り物プレゼント① (普通)|あらあら、面白い物をくれるのね。ふふ、ありがとう。お礼にワルツでも弾きましょうか?|
|贈り物プレゼント② (喜び)|まあ、こんな素敵な物をプレゼントしてくれるの!本当にうれしいわ!どうもありがとう!後でシャンパンで乾杯ね!|
|ログイン① (好感度Lv20未満)||
|ログイン② (好感度Lv20以上)||
|時報 (0時)||
|時報 (1時)||
|時報 (2時)||
|時報 (3時)||
|時報 (4時)||
|時報 (5時)||
|時報 (6時)||
|時報 (7時)||
|ログイン① (好感度Lv20未満)|ごきげんよう、指揮者さん。今日も楽しく、愉快に音楽を奏でましょう。|
|ログイン② (好感度Lv20以上)|お待ちしてたわ、指揮者さん。今日も軽快なワルツを踊るような、華麗な指揮をお願いするわね。|
|時報 (0時)|0時を過ぎて日付が変わったわ。今日もよろしくね。|
|時報 (1時)|深夜の1時よ。夜更かしは美容に良くないわ。気を付けて。|
|時報 (2時)|深夜の2時ね。あんまり頑張りすぎないでね。貴方の身が心配だわ。|
|時報 (3時)|夜中の3時。お腹が空いたとしても、駄菓子はダメよ。せめて、健康食品にしましょうね。|
|時報 (4時)|4時。不吉な数字とか言っちゃダメ。私が気にするから…。|
|時報 (5時)|早朝の5時ね。散歩にでも行くと、気分が良さそう。|
|時報 (6時)|6時よ。おはよう、シュトラウス2世。楽しい1日になると良いわね。|
|時報 (7時)|7時。朝食はきちんと食べましょう。健康の基本は規則正しい生活よ。|
|時報 (8時)||
|時報 (9時)||
|時報 (10時)||
|時報 (11時)||
|時報 (12時)||
|時報 (13時)||
|時報 (14時)||
|時報 (15時)||
|時報 (16時)||
|時報 (17時)||
|時報 (18時)||
|時報 (19時)||
|時報 (20時)||
|時報 (21時)||
|時報 (22時)||
|時報 (23時)||
|上限開放①||
|上限開放②||
//|>|~図鑑未収録ボイス|
|>|~期間限定ボイス (2017)|
|バレンタイン||
|ホワイトデー||
|卒業式||
|バレンタイン|ハッピーバレンタイン!指揮者さん。糖分を控えたビターチョコは健康に良いし、お酒とも合うわよ。&br;と言うわけで、はい!遠慮なく受け取ってね。甘いのと間違えちゃダメよ。舌がビックリしちゃうから。|
|ホワイトデー|ごきげんよう、指揮者さん。あら?バレンタインのお返しをくれるの?&br;んふふ、ありがとう。やっぱりあなたって優しい人なのね。これからも仲良くしましょう。よろしくね。|
|卒業式|卒業式の時期ね、指揮者さん。別れは好きなテーマじゃないわ。&br;悲しげで湿っぽい旋律が好まれるもの……確かに人生には付き物だけどね。まぁ、このテーマに関しては、他の人に譲るわ。|
|ひなまつり||
|入学式||
|お花見||
|母の日||
|入学式|入学式の時期ね。新たな出会いに気持ちが浮き立つわ。早速、歓迎の祝宴を開いて、みんなで王様の家来になりましょう。&br;偉大なる王、シャンパンに乾杯。宴が終わる頃には、王の偉大さでみんな仲良くなってるわ。|
|お花見|もうね!お花見の会なんてね!私の出番以外の何物でもないわね。&br;シャンパン、ワルツ、ポルカ!歌って、踊って、泡を飲む!人生って本当に素晴らしいわね!|
|母の日|母の日…母の日…ね……私はね。昔の話をしたくないの。忘れる事こそ人生の幸福って曲を作った事があるくらい。&br;思い出を大切にする人からは怒られそうだけどね。考え方の違いという事で…受け入れてほしいわ。|
|>|~限定ボイス|
|指揮者誕生日||
//region内表整形用
|LEFT:1024|c
| |
#endregion

//-----------------------------------------------------------------------------
#region(''表情差分''_)
|CENTER:|CENTER:|CENTER:|c
|~喜び|~怒り|~悲しみ|
|&attachref(,nolink,);|&attachref(,nolink,);|&attachref(,nolink,);|
|&attachref(シュトラウス喜び.gif,nolink,);|&attachref(シュトラウス怒り.gif,nolink,);|&attachref(シュトラウス悲しみ.gif,nolink,);|
|~照れ|~真剣|~驚き|
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#endregion

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*コメント [#h135bb01]
#pcomment(./コメント,reply,15)


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