後期ルネサンス時代のイタリアの作曲家であるジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(1525頃~1594)が元ネタ。
数多くのミサ曲や宗教曲を作曲し「教会音楽の父」と呼ばれる。
ローマ近郊のパレストリーナに生まれる。名前の「パレストリーナ」は生地の名前であり、本来の名字は「ピエルルイージ」であるが、「パレストリーナ」が名字のように呼ばれる。
これは当時のイタリアの人物では珍しくないことである(レオナルド・ダ・ヴィンチなど)。
パレストリーナは1537年頃にローマのサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂の少年聖歌隊で活動していた。
この頃に後に教皇ユリウス3世となる司教の目に止まり、パレストリーナは彼に最初のミサ曲を献呈する。
当時ヨーロッパの音楽の発信地となっていたのはジョスカン・デ・プレの出身地であるフランスやオルランド・ディ・ラッソの出身地であるネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー)であり、
パレストリーナはイタリア出身でミサ曲を作曲した初めての作曲家であった。
ユリウス3世が1550年に教皇に就任するとパレストリーナは引き立てられ、同年にサン・ピエトロ大聖堂のジュリア聖歌隊楽長に任命される。
この頃に作曲家としても活躍するが、1555年ユリウス3世が死去し、後任の教皇マルチェルス2世が在位わずか21日で急逝すると、次代のパウルス4世には冷遇され、解雇されてしまった。
その後はラッソの後任としてサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂楽長に就任し、1561年からはサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂楽長を務めた。
1571年には当時の教皇ピウス5世に呼び戻され、ジュリア聖歌隊楽長に返り咲いた。
1570年代の10年間は身内に不幸が続いた。
1572年、1575年、1580年のペストの大流行で、弟と二人の息子と妻をそれぞれ、失っている。
その為、パレストリーナは一時期は僧侶になることも考えたが、 裕福な毛皮商の未亡人と再婚。
結果、経済的な独立を得た(聖歌隊の楽長としての給料はとても生活が続けられない状態)
再婚した事で、亡くなるまで生活に困ることなく作曲し続けることができた。
パレストリーナさんは生涯、ジュリア聖歌隊楽長の職務を全うした。
1594年 ローマで、胸膜炎にかかり亡くなる。
その棺には「Libera me Domine(主よ、われを解き放ちたまえ)」と彫りこまれた 鉛の板が付けられている。
パレストリーナの埋葬の際には、3声部のための5声の聖歌が歌われた。
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| | 何から解き放つの?
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パレストリーナと深い関わりのあったカトリック教会において、Libera me Domine と聞いて真っ先に連想されるのは
レクイエム(死者のためのミサ)に続いて唱えられる祈祷文の一節だろう。
Libera me, Domine, (主よ、我を解き放ちたまえ)
de morte aeterna, (永遠の死から)
in die illa tremenda. (かの恐ろしき日に)
この世の終わりにあるという最後の審判の日、魂の救済を得られますようにとの祈りであり、
レベルアップのたびに「神の御許に近付けました」と宣う彼女らしい願いなのかもしれない。
レクイエムの作曲時、上記の祈祷文に曲が付けられることもあり、特にフォーレのレクイエムのそれは佳曲として知られる。
参考動画 https://www.youtube.com/watch?v=7WvHDrcA084
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