ベドルジハ・スメタナ(1824年~1884年)
チェコの作曲家・指揮者・ピアニスト。チェコ音楽の祖。
有名な作品は、「連作交響詩『わが祖国』」「オペラ『売られた花嫁』」「弦楽四重奏曲第1番『わが生涯より』」。
特に、わが祖国の第二曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」は、おそらく最も有名であり、ベドルジーナのスキル名にもなっている。
1824年、ボヘミア(現在のチェコの西部・中部地方)に生まれる。
父の音楽好きにより、幼い頃からヴァイオリンを学び、後にピアノも本格的に習うようになる。6歳でピアノ公演を経験している。
ヴァイオリンよりもピアノの方が気に入っていたらしい。
1848年、ピアノ学校を始める。
この際、スメタナがリストに手紙を書き、「ピアノ曲の献呈」「出版社への紹介」「資金の援助」を依頼している。
リストは、金銭的援助は断ったが、これがきっかけで彼との交友関係が始まる。
「リストさんと私はピアノの名手という共通点があって仲がいいの」
1864年、プラハ音楽院の指導者に応募するも落選。
スメタナ自身は、この役職にとても期待していたらしい。
「先生はね、(中略)この音楽院のトップになりたいと考えているの」
1866年、プラハの仮劇場にてオペラ作品の初演、劇場の指揮者に就任。
スメタナは、ワーグナーが再構築したオペラの後継者であり、その指揮ぶりは、過度のワグネリズム(=ワーグナーの理論の採用)であると非難された。
これが、プラハの音楽界を二分するまでになるが、本人は十分にスメタニズムであると、一蹴していた。
「リストさんはワーグナー派支持だから私もワーグナー派になるわね。こういう政治の話は嫌い?本当はね・・クスッ、先生もそうよ」
1874年、仮劇場を辞職。
スメタナへの非難は、彼の健康の悪化にもつながり、健康状態が回復するまでという名目で辞職。
しかし、辞職時には右耳が失聴、その一月後には左耳が失聴、中途失聴者になる。
スメタナはプラハを離れて静かな町で作曲活動を続け、『わが祖国』や『わが生涯より』などの代表作を完成させる。
またこの時期にはスメタナの作品が多く演奏され、チェコ音楽を代表する作曲家として認識されるようになっていた。
特にオペラが人気を博していたが、スメタナの病状は悪化しており、記念コンサートに出席することもできなくなっていた。
1884年、病死。
辞職後、お金の問題もあり、妻との関係も悪化。数年後には精神状態も悪化し、1884年に精神病院に入院、正気に戻らぬまま病院内にてその生涯を終えた。
参考:wikipedia
(余談:スメタナとドヴォルザーク)
ベドルジーナが期待を寄せているアニー・ドヴォルザークだが、どちらも元ネタはチェコ国民楽派を代表する作曲家。
そしてドヴォルザークはスメタナが指揮する楽団のヴィオラ奏者であった。
そのためドヴォルザークはスメタナの指導を受けている。
初演の引き受け手が見つからなかった弦楽四重奏曲第1番『わが生涯より』においても、ドヴォルザークはヴィオラ奏者として演奏を引き受けていた。
しかし、ドヴォルザークはその後保守的とされていたブラームスによって音楽界に紹介され、ブラームスの影響を受けるようになった。
このことでドヴォルザークはスメタナを支持する進歩派やワーグナー派から批判される。
こうして結果的にスメタナとドヴォルザークは進歩派と保守派(ワーグナー派とブラームス派)の争いに巻き込まる形で対立関係に置かれていた。
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