セザール・フランク(1822 - 1890)、ベルギーに生まれ、フランスで活躍した作曲家・オルガニスト。
ベルギーのリエージュにて、ドイツ系の画家の父の元に生まれる。
全名は「セザール=オーギュスト=ジャン=ギヨーム=ユベール・フランク」という大変仰々しいもので、
これは幼くして音楽の才を示したセザール(及び弟ジョセフ)を、父親がフランツ・リストのような大ピアニストに育てようと
徹底的な英才教育とプロデュースを図ったがための名である。
父の期待通り、パリ音楽院にて優秀な成績を収めるが、あまりに高圧的な父の態度と、自分が選んだ女性との結婚を認められなかったことから
ベルギーの実家を飛び出してフランスに移住し(のちに帰化)、仰々しい名前も捨てて「セザール・フランク」とのみ名乗るようになった。
以降、フランスでオルガニスト・音楽教師として活動するが、作曲家としての評価は長い間鳴かず飛ばずだった。
そうした中、1871年には当時存在感を増していたドイツ音楽に対抗しフランス独自の音楽性を確立することを目指し
カミーユ・サン=サーンスやガブリエル・フォーレらと「フランス国民音楽協会」を設立。
(当時、普仏戦争によるフランス・ドイツの関係悪化、フランスのナショナリズム感情の高揚が背景にある。)
フランクはヴァンサン・ダンディなどの弟子を育て、彼の一派は「フランキスト」と呼ばれる。
生まれはフランス人ではないながらも、フランスの国民音楽の発展に尽力した作曲家の一人として現在は評価されている。
作曲家としての主要作品は晩年に集中している。
オラトリオ『至福』(1869-79)『ピアノ五重奏曲 ヘ長調』(1879)『ヴァイオリンソナタ イ長調』(1886)『前奏曲、アリアと終曲』(1887)など。
音楽魔法の『3つのコラール』は、1890年に交通事故で重症を負い、徐々に悪化する体調の中で書かれた作品で、最後の完成作となった。
しかし、作品の数々は生前評価について議論が絶えず、冷淡な評価を下す一部の世論と、それに対し猛烈に抗議する弟子たちの間で
フランクは頭を悩ませていたらしい。キャラクターのおどおどした性格はこうした経歴によるものか。
大器晩成型、かつ、死後により評価が高まった作曲家といえる。
さて、「身体(のいろんな部分)が大きい」という設定については、
アビリティにもある、フランクが12度を掴む大きな手を持っていたことによるものだろう。
これはピアノの鍵盤の距離を表すものであり、12度とは片手の親指と小指で「ドレミファソラシドレミファソ」まで届くということである。
さすがに「届く」だけでは実際の演奏に組み込むのは無理だが、フランクの楽譜には10度を要する和音が登場し(一般的な手のサイズではこれでも難しい)、
後世の学者や演奏家から「みんなが自分みたいに手がデカイと思って書くんじゃねぇよ!」とツッコまれる原因となっている。
大きくてすみませんというわけである。
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