明治の西洋音楽黎明期の音楽家、滝廉太郎が元ネタ。
-滝廉太郎-
1879年(明治12年)8月24日-1903年(明治36年)6月29日
父が官庁に勤めていたので、転任のため横浜、富山、東京、大分と転居。
そして明治24(1891)年12月、一家全員で竹田へ移る。
明治27(1894)年5月に上京し、芝唱歌会に入会。
東京麹町平河町の従兄大吉の家で暮らし、同年9月には東京音楽学校(予科)へ入学した。
翌年本科に進学し、明治30(1897)年には脚気を患い竹田に戻り静養。
この頃「散歩」を作曲。翌年7月9日、本科を首席で卒業。同年9月には研究科へ進学した。
明治32(1899)年、音楽学校嘱託となり、授業補助を担った。
この年に「四季の龍」を作曲。
翌年にはピアノ及び作曲研究のため、ドイツ留学を命ぜられ明治34(1901)年4月に横浜港を出航。
同時期に「中学唱歌」を出版、「荒城の月」、「箱根八里」などを作曲する。
翌年、結核となり東京へ帰着。
「別れの歌」を作曲後、大分町にて病気療養。
その後、「荒磯」「憾(うらみ)」作曲。
明治36(1903)年6月29日、大分市内で病死。僅か23歳10カ月。
大分県竹田市に瀧廉太郎記念館がある
-特殊攻撃:変わらぬ光-
荒城の月の歌詞にある。月の光を指している。
-音楽魔法:荒城の月-
土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲。
日本で作曲された初めての西洋音楽の歌曲とされ、日本の歴史的に重要な曲である。
なお、メンデルスゾーンが1830年代に作曲した交響曲第3番「スコットランド」第1楽章冒頭に似ていると言われることもあるようだ。
-滝廉太郎とテニス-
東京音楽学校の在学中、および卒業後に教師と生徒の中間的存在として在籍していた際に
テニスをたしなんでいた模様。同校でもなかなかの腕前であり、女生徒からは
憧れの存在だったようだ。
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